樹遷のエッセイ

杜のまなざし (5)

 山守りびとたち

 かつて、山は賑わっていた。とはいえ、現代の都会の様な賑わい、騒々しさではない。遙かな時代の話でもない。第2次大戦前、まだ百年も経っていない頃迄の事である。その頃まで、山には山を生活の場とする木地師、漆採集人、炭焼き、猟師、煮炊きに使う柴を採る里人、更には山を修行の場とする修験者、今はおおかた忘れられた山越えの道を辿る人々、などなどが行き交い、時にはその人々が各地への文化の伝播者となった。そのかつての広葉樹に覆われた山には、それらの人々のたつきを支える豊かさがあり、様々な動物たちも豊かな森に支えられていた。

 1947年、私の生まれた年である。この年設立された林野庁は、広葉樹より利益あるものとして、自然林を伐採して用材杉を植林する計画を、戦後の経済成長に資するものとして打ち出した。ここに、日本在住の長いアレックス・カーの文章を載せよう。

 「....日本の景観はがらりと変わってしまった。今ではどこへ行っても、日本特有の自然林の明るく繊細な緑は少なく、まばらに残る自然林も軍隊式に林立した杉木立に侵略されようとしている。紅葉、桜、秋草、竹林、何千年にもわたって伝統芸術や文学の主題であり続けた自然、その無傷な姿を眺めることは、もうほとんど不可能になっている。文化的な損失は別にしても、杉の単純林は多くの野生動物を死滅させている。成長の早い用材林の落とす暗い影は下生えを枯死させ、鳥や鹿や兎や狸の生息環境を破壊する。....中略....地被直物を奪われた山の保水能力は低下し、山を流れ下る川は干上がっている。杉を植林した土地は浸食が激しく、それが崖崩れや川への土砂の流入につながり....」アレックス・カー著「犬と鬼ー知られざる日本の肖像」講談社刊

 先年、福岡県、大分県日田地域を襲った豪雨、山崩れの被災地に直後に入り、被災者の支援活動の傍ら、つぶさに山崩れの現場を調べた。あれは、林野庁が「推進」した人災である。

 西欧の森は、おおむね平地にある。日本は、森林を「山」と称するように、多くの森はこの山がちの国では山岳部に広がっている。縄文期には平地に森が広がっていたのだろうが、その少ない平野の森も農耕文化の伝播と共に、切り開かれ農地へと転換し、わずかに残った平野部の森は鎮守の森となっていった。

 日本は世界でも希に見るジオ多様性の豊かな地質である。一度日本の地質図をご覧になって頂きたい。様々な年代の、様々な地層がモザイク様をなしている。他の大陸の地質図と見比べて頂けば、一目瞭然にその違いがわかる。ヨーロッパ大陸の地質は日本と比べれば単純である。ジオ多様性の豊かな土地には、豊かな自然の多様性がある。ジオ多様性が単純であれば、そこに育まれる森も単純な様相となる。

 ジオ多様性故に、日本のかっての森は豊かな様相を示していた。また、豊かな植生は、多様な地質に応じて発達した。そのジオ多様性を無視した、ヨーロッパ型林学による単層林の植林は、根本を無視した矛盾を今露呈している。福岡、大分で発生した土石流は、花崗岩風化土、まさつちの土壌に植えられた用材林の崩壊に他ならない。

 戦後の経済復興の名の下に行われたのは、明治以来の富国強兵の強迫観念の亡霊のなせるわざではないだろうか。これまで、森林とジオ多様性の関連を殆ど無視してきた植林事業にも多大な疑問を感ぜざるをえない。

 世の中には、こうした林野庁の推進してきた植林政策に疑問を持ち、様々な自然林の復活、豊かな自然林の育んだ森の文化の復興に取り組んでおられる方々がいる。杜のまなざし塾のお仲間にも、三重の美杉の地で放置された山の間伐や、自然林への再植林、森の恵みを生かす活動を、20数年にわたり、多くのボランティアとともに実践してこられた方がいる。また、最近お会いした長野で林業にいそしむ傍ら、森の文化の復活を食や、その他の面から試みていらっしゃるかたもある。お二人とも女性である。森を壊した男性原理にたいし、豊かな森の復活に女性原理が働き始めている証しだろうか。

 本来、山に携わる人々は、「山の守りびと」であった。大きな生命循環の中で、山は清浄な大気、水をもたらしてきた。山を壊すという事は、生命循環を損ない、ひいては私達の生命も損なわれる事でもある。

 森林学者の四手井綱英氏の言葉を最後に載せよう。

 「植林政策は失敗だった。経済の高度成長時代に、林野庁は急成長の雰囲気に引きずられ、産業面にばかり気をとられた。....森林には産業以外の役割もあるという事実を完全に無視したのだ。木は経済的な利潤のためだけに存在するのではない。」

 次世代に向けて、我々は「山の守りびと」であったと語り継げるだろうか。

杜のまなざし (4)

 いやしあいの風景

私達が唱えてきた樹林氣功では、いやしあいの念いを根幹にしてきた。最近では癒しという表現がちまたに溢れている感があるが、30年ほど前に”みどりといやしのフォーラム”を企画した時には、癒しという表現を見て、これは新興宗教か何かの集まりですか、と怪訝な顔をされたものである。また、癒しというと、ヒトが癒されることのみ語られるのは今日でも変わりない。

 私達が、いやしあいの念いを根幹にしているのは、それがいのちの風景の本来のすこやかなありようだからである。すべてのいのちは本来、双方向、総方向である。ところが、教育の分野でも、医療の分野でも教える者、教えられる者、治療する者、治療される者の関係は一方向であり、それを双方とも疑いもしない。そんな関係性がいのちの風景として如何に偏ったすこやかでないものか問い直しもしない。更に、いやしあうのはヒトとヒトだけではなく、ヒトともろもろのいのちとの間にも有ることを我々人間は忘れがちである。

 そのいやしあいのなまみの感性を、一方では人と人の氣の交流で、他方では森の中に立ち交じらせて頂き、杜のまなざしに包まれながら拓いていくことを私達は願っている。そんな子供じみた幻想ですよ、と鼻先でせせら笑う方々もある。その方々は、現代社会の全ての社会機構が、必然の虚構の上に成り立ち、その虚構の危うい事実の中で我々はこの世を生きているという事に気づかないか、うすうす判っていても目をつぶっているかである。森羅万象という大きな精妙ないのちの網の中にささやかな一点として存在させて頂いていると云うことを、まるで非科学的な捉え方としてしか思っていない。

 真に科学的という事は、単に定量的に、定性的に現象を捉え、解釈するだけではなく、むしろ大きないのちの網を直感的に、なまみ感で感じとることにあるのではないだろうか?

 さて、ヒトとヒトのいやしあいに話を戻そう。アメリカで或る時スピーチを求められた。以下、その折のスピーチの一部を、後にエッセイとして書いたものである。原文のままで少し長いが、読んでみて頂きたい。

 ”Hug"

 For ordinary Japanese people, it is not a habitual act to hug or to be hugged by someone. When I visited France in my youth, I was shocked by their hugging and kissing so often.

Years later, I was in Calcutta(now Kolkata) to work as a volunteer in one branch of activities organized by Mother Teresa. My work was to seek dying people in the street of Calcutta every early morning, and take them to the place later called "House of Dying". Almost of them were past cure. They were dying. What we could do was to clean up their bodies sometimes covered with pus and leeches. After cleaning up, we put on them clean and comfortable clothes.

One day, I met an old man dying. Nuns were so busy because that morning we had many dying people. After praying for the man, nuns left him alone. I saw the furrows of grief in his face. The old man was in deep solitude. Unintentionally, I hugged him and stayed with him until he passed away. Just before his last breath, he opened his eyes and smiled so beautifully. Since then it has become my way to bless "the departure" of dying person.

After India, I went to several places in the world where I could help the victimes of war, natural hazard and social inequality. In each case, I met many orphans who had very deep hurt not only of their body but also of their soul. They were dying in their mind. For almost of them, a psychological approach by doctors was not enough effcient. One night I kept hugging the whole night a little boy who had been screaming nonstop even one minute. The day after, he stopped crying. I continued to hug him as possible as I could. First, he was just as a cold stone. A few days later, he became warm and soft. One day he laughed. It was first time that we heard his voice.

As a doctor of oriental traditional medicine, I often receive patients of serious illness or their family come to ask my advice. My advice is always finished with the following phrase. "First of all, please hug each other as often as possible." Last year, a family of a patient who had cancer of pancreas in terminal care came to ask me if they could cut a prescription of painkiller and give him ordinary life for his last moment. The patient was a doctor, a specialist of cancer. I went to see him and adviced him, "Please hug with your family." He told me, "Doctor, I never hugged my son, my daughter..." According to the family, in his last ten days, he rarely had pain without painkiller and enjoyed those days to hug each member of family as often as possible.

Nowadays, many of doctors can not even touch their patients. From many researches, healing touch give us beneficial effects, such as increasing the power of resistance to disease, decreasing pain, being emotionally stable and so on. Each time when I give a lecture for medical staffs, I tell them, "Hug! Hug your patients! Hug your colleague! Hug your family! You will find not only your patients but also yourself healed."

大変拙い英文であるが、いやしあいの念いはお届けできたであろうか。

杜のまなざし (3)

 早、20有余年になる。ある日、一人の青年が訪ねて来た。志は有るが、進むべき道を見いだせぬ心の揺らぎがそのまなざしに感じ取れた。幾度かの樹林氣功の集いを通し、彼は「いのちひとつらなり」という私達の樹林氣功の念いの言霊を胸に発っていった。

 暫くして、彼は故郷白山麓にワンネス・スクールを立ち上げた。ワンネス=いのちひとつらなり。様々な状況の中で、様々に鬱屈した若者達に学びや、共に生きて行く事の大切さを伝える場が生まれた。

 その後、音信の途絶えた年月が過ぎた。私の海外での活動が一段落した頃、他の杜の仲間と共に、今は壮年になった彼と再会した。ワンネス・スクール主催の講演会講師を依頼された。彼の成し遂げてきたことを思えば、今更私が講話する事もないと思えたが、彼が産み育ててきた「人の杜」の風景を訪ねてみたくもあった。

 講演会の期日も迫った頃、彼から連絡があった。教育の分野での活動に中日新聞より贈られる「教育賞」に選ばれ、授賞式が講演会と同日という事になり、申し訳ないが講演会の開会時間を少し遅らせてもらえないかとの相談であった。そのような喜ばしい事なら、講演会は受賞記念講演会とし、むしろあなたが報告、講演を行ってはと勧めたが、むしろ授賞式より講演会を大切にしたいと、彼は譲らなかった。

 当日、講演会は開会を数時間ずらし、午前の表彰式後、彼は名古屋からとんぼ返りで金沢の講演会場に戻ってきた。その日の講演会は、予想を上回る参加者が、講演後の質疑応答まで熱心にご参加下さった。出会いの偶然と必然の不可思議を改めて思う一日であった。

 I prefer to finish my education at a different school.

Henry David Thoreau, "Life without Principle"

 「私は異なった学舎において私の教育を成就したい。」 ヘンリー・D・ソローの言葉である。「森の生活」の著者として知る人々は多いだろう。45年に満たないその生涯の中で、ソローは単なる森の隠者に止まらず、様々な職業を経験している。その数ある職業の中には教師もある。兄ジョンと経営した私設学校、コンコード・アカデミーがそれである。この学校の特徴は、通常の学科以外に森の散策、ボート漕ぎ、先住民の遺跡見学、町の商店訪問など様々な活動が含まれていた。

 「...学校でただ『川は山から流れ下る』と教えられても、それは想像上の知識でしかない。真の意味で学知を持つ者は、自らの繊細な身体感覚を通じて自然を知る。...」このソローの言葉は、私達が唱えてきた樹林氣功の「なまみの感性」と響き合う。また、ソローは云う。「私達が学ぶのは、直接的な交わりと共感によってである。」ここでソローは、Sympathy『共感』という表現を使っている。この語には、「思いやり」、「調和」、「共鳴」、「共振」、「交感」などの重層的な意味が含まれている。私達も、杜のまなざし塾で、いのちの本来の風景は、双方向の響き合い、森羅万象との交流、共鳴、共感と説いてきた。

 「人の杜」育ても、森林を育むのも30年、50年、3世代の大事業である。

 「財を真に営む者は公の心を持つ者なり。公の心を持つ者は財を真に活かす者なり。その財のもっとも真なるは人なり。真に財を営むは人育てなり。」という言葉がある。

 北陸、白山麓の地で、今、いのちひとつらなりの人の杜が育っている。

杜のまなざし (2)

 福井から山中温泉に抜ける道は、富士写ヶ岳の裾を巡って行く。深田久弥の日本百名山の出発点とも言える富士写ヶ岳の晩秋の森で、杜のまなざし塾を行った。地元からの参加と共に、遠くは熊本、そして三重、長野、兵庫からも杜のお仲間が集い、80代から幼児まで杜の氣との交流を楽しんだ。

 樹林氣功会観氣行改め、杜のまなざし塾も、その基本はたんとう功である。ふっと、森の中に立ち交じらせて頂く。『化樹の行』とも云われるが、「わたし」が立っているのではなく、杜のまなざしに包まれて、ここに、静かに、森のささやかな一部として居させて頂く。たんとう功は、その境地に入って行く一つの手立て、一つの作法である。手立てや作法はシンプルなものほどよい。そして、一度境地が拓けば、手立てに囚われる必要はない。

 氣功の念いには、要らざるものを脱ぎ捨てていく、行き着く先には、無一物の軽やかさ。ただ、すとんと、天地万物のただ中に、そのささやかな一点として息づかさせて頂いているいのちひとつらなりの風景がある。この簡にして、素なることを、往々にして、なかなか納得して頂けない。

 あなたの云っていることは、難し過ぎると言う者もあれば、いや、もっと奥義に至る技があるに違いない、出し惜しみをしないで、その技を、修練法を教えてもらいたい、と迫る者もいる。この様な功法が、気のパワーを強くする。この様な樹木と、或いはこの様なパワースポットで気功を行えば、気感が拓き、能力が高まり、健康になる等々、効能書きはかまびすしい。様々な功法が世に溢れ、その功法を学ぶ事が、いつの間にか目的化してしまい、気功の商業化に貢献する事になる。甚だ近視眼的な、本来の氣功の風景とは異質なものと云わざるを得ない。

 富士写ヶ岳の急な登りを過ぎた中腹のブナ林で、弾んだ呼吸を静め、各々が好みの場で、杜の一部となった。30名ほどの参加者の中には、約30年にわたり、樹林氣功を積み重ねて来た方々もあれば、つい最近始められた方々も居た。両親と共に参加した幼児も居た。

 氣の世界には、優劣は無い。生きとし生けるもの、在りとし在るものは氣を有し、響き合い、連なりあっている。ヒト科のヒトのみが、文明という技術革新の中、氣の感性を閉ざし、鈍らせてきた。

杜のまなざし (1)

 樹林氣功を提唱し、早三十年が経った。この間、「樹林氣功」はそれなりに社会に認知され、各地に拡がりを見た。しかし、その多くはともすれば森林浴や、アウトドア健康法の一つとしての理解であったり、大樹、古木からパワーをもらうといった類のものである。それなりに影響力のある気功評論家が、そのような森林気功を喧伝していることもあり、世の多くにはこうした樹林気功の捉え方が流布している。

 気功の世界の大半は、ヒトの我欲の世界。樹林氣功を称しながら、その実は、我にとってのご都合主義、我の健康、我がパワーアップが彼らの心を占めている。そこに在るのは、人間の利益から見た世界であり、そうした世界には、自らが杜のまなざしを受けて、ここにささやかに存在させられているという謙虚な認識は育ちようもない。いのちの風景としては、一方向に偏ったすこぶる健やかならざる風景である。

 歴史を振り返れば、産業革命以降、私達ヒトは、この我欲増大、ヒトのご都合主義を、それまでと比較にならぬ機械・技術・生産力を持って驀進してきた。その結果を、今日私達はまざまざと目の当たりにしている。にも関わらず、ヒトは慣性で、今までの理性や知性、技術力の幻想に無上の価値を置いた、価値観や行動をひたすら続けている。

 今日、理性や知性はAIに奪われ、技術力はそれを使う者の倫理観や判断力の及ばぬ領域に入り込み、それでもなおかつ技術的問題は技術によって解決できるという虚構の迷路を突き進み続けている。

 一歩立ち止まってみてはどうだろう。静かに辺りを見回し、諸々のいのちに包摂された自己を、大きな精妙な「いのちの網」を、その不可思議を見つめるひとときを持ってみてはいかがであろうか?

 自我意識の肥大化したヒトの視点からばかりではなく、諸々のいのちのまなざしを受け、いのちの網の中にある小さな存在であると共に、全てのいのちとつらなりあっているということをなまみに「観ずる」感性を育み、養うことが今日におけるヒトの課題ではないだろうか。ここに、杜のまなざし塾の問いかけがある。

白山水系観氣行

 私は若い頃より、何かに引き寄せられる様に、呼ばれる様に、様々な風景を訪ね、暫しそこに佇み、時を過ごした。今にして思えば、その殆どが今日ジオパークとされ、ジオサイトと呼ばれる地である。

 白山もその一つ。現在ジオパークと認定されている白山域、その水系。呼ばれる儘に訪れ、暫し日々を過ごした。約半世紀前、10代の終わりの頃であった。その白山水系を、秋の終わりに北陸の仲間達と、杜のまなざし塾の集いで再訪した。

 二十四節気七十二候では、霜降の末候、「楓蔦黄なり」と。因みに、古やまとことばでは、草木が黄や紅に染まることを「もみつ」と、その葉を「もみち」と呼んだ。「もみじ」の語源と云われている。

 白山水系の滝滝は、美事な紅葉に彩られていた。正に、「山粧う」。十一世紀、北宋の画家、郭凞の言葉である。更に、冬の静もった山を「山眠る」と。その粧いから眠りにつく寸前の一瞬に私達は立ち会えた。身の染まるような「もみつ」の風景の中、暫し杜のまなざしとの交流を楽しみ、その余韻を味わいながら下山した。

 ところで、白山水系の滝と紅葉の美事な風景に感動しながら、この風景、この森の成り立ちに幾人の方が思いを馳せただろうか。

 白山は、中生代白亜紀前期(約一億四千三百万年前~)に堆積した手取層群などの地層の上に火山の噴出物が載る非常に不安定な地質を成し、大規模地滑りの起こりやすい地帯である。こうした地質が、あの滝の多い景観を産み出し、森も造り出した。

 最近、「多様性」という言葉が日常の文脈の中でも使われるようになってきた。生物多様性、種の多様性のみならず、文化の多様性などとも使われている。しかし、まだ「ジオ多様性」という表現は余り認知されていない。様々な地質を構成する岩石、そのような地質によって造られる地形の多様性。その地質、地形を巡る水循環の多様性。それが、多様な森を生み育んでいる。私達も、そのジオ多様性によって支えられた生物多様性の中に生かされている。

 あの美事な白山水系の紅葉は、想像を遥かに超えた時の集積のジオ多様性に始まる様々な多様性の連鎖・循環によって成り立ち、現前している。

 白山を発った翌日、今年の暦では十三夜に当たった。西に向かい、その夜は島根県隠岐島前のカルデラの外輪山に立ち、十三夜の月光に包まれた。