樹遷のエッセイ

杜のまなざし(21)

~養生の宿(ようせいのやど)~

養生塾北陸の集いも、今月の夏土用養生塾をもって、10回目を迎える。

この間、『杜のまなびや』を提唱してきた。このまなびやには、様々な方の関心、興味に応じ、またご事情に応じての幾つかの参加の仕方、テーマを設けている。

 養生塾も、そのひとつの入り口、提案。ここでは短期間ではあるが、生活を共にするなかで先達からの伝承の「なまみの智恵」の体感、体得を大切にしている。また、氣の家族としてのそれぞれの居場所を、それぞれの参加者に見出して頂ければ、との思いも籠められている。

 杜のまなざし塾は、共に杜に立ち交じって杜の呼吸、杜のまなざしを体感してみようという今一つの入り口、提案である。

 しずく塾は、参加者のそれぞれの思いを語りあいの中で、言葉を紡ぎながらいのちの智恵を磨いていこうという提案である。

 更に、いのちの双方向の体感、体現の場としてのいやしあいの会がある。

この四つの柱が、杜のまなびやを成している。

 二年に渡り、杜のまなびやを実現してきて、その先にこれからの夢として『養生の宿』を思い描いている。

人生の旅に疲れた方、ちょっと一服したい方、自らの居場所を模索していらっしゃる方、それぞれのご事情に応じ、暫く過ごして頂ける場。「宿」と云ってはいるが、今お持ちの生活の場とは別の、血縁、地縁とは異なる『氣縁』の家族としての「里帰り」の居場所と考えて頂くと良いのかも知れない。

「宿」では、杜のまなびやの四つの柱の提案が、滞在なさる方のご希望に応じ行われるが、何もせずのんびり過ごされるのも。食事も、氣食が供されるが、氣食を覚えたい方は、調理を共に行って頂いても。

 人間は本来孤独な存在である。しかし、孤独は孤立とは異質のものである。

被災地の支援活動の中で、いつも気にかかる事がある。

被災者の独居老人の孤立、また大規模災害の場合、ご本人は被災していない被災地周辺の独居老人の孤立化は、表面化しないがそれだけに配慮が及ばず深刻なケースが多い。

更に、近い将来、独居中高年の人口が急増する事が指摘されている。引き籠もり、孤立化が目に見えない形で進行していく事が危惧される。

また、私の周囲でも、各地の集いでも見聞きする家庭内、家族の中での孤立化も、もはや特異なケースだとは言えない。

家族や、家庭、パートナーシップに対するこれまでの有り様が本質的に問い直される時が来ているのかも知れない。

 こうした状況の進行する中、養生の宿は他者と、他のいのちとの連なりを回復する一つの提案であると共に、穏やかな、なごやかな、すこやかな「居場所」を提供できればとの具体的な試みでもある。

 現在、放置家屋の問題も出口の見えない状況である。取り壊すには勿体ない家屋も多い。こうした家屋を活用し、養生の宿を各地に開いてはいけないものだろうか。過疎化に高齢化が進む地域に、地縁も、血縁も無いが、氣縁の家族として人々が「里帰り」する風景が生み出して行けないものだろうか。

 これまで、何カ所かの宿候補地を訪ねたが、皆様の周囲にお心当たりの場所があれば、どうぞ下記にお知らせ下さい。

養生の宿実現は、一人の人間では為し得ません。多くの方々のお力添えがなにより大切です。様々なお力添えお待ち致します。   樹遷 記

 *連絡先:e-mail;morinomanazasi@gmail.com 養生の宿 樹遷宛て

杜のまなざし(20)

  夏至にあたる日、石川県小松市芦城公園内にあるお茶室を、北陸の杜の仲間のご配慮で小松市よりお借りし、しずく塾が開かれた。

 芦城は、加賀藩三代目藩主前田利常の隠居城として築城された。梯川(かけはしがわ)の流れを取り込み、湿地に造られた城の総面積は、金沢城の数倍もの規模であったという。芦の茂る水面に浮かぶ様に見えたのであろうか「小松浮城」とも、「芦城」とも。

 その芦城の三の丸に、慶安五年(1652)前田利常の茶頭(さどう)として召された千家四代目千宗室は屋敷を賜った。1997年、屋敷跡に、この裏千家(今日庵)の祖、仙叟宗室を深く敬慕する十五代鵬雲斎千宗室が先祖供養に建て、小松市に寄贈したものが、今回の茶室である。

 千宗室は、元和八年(1622)に生まれ、元禄十年(1694)に亡くなっている。千利休の曾孫にあたり、父宗旦が隠居後営んだ今日庵(こんにちあん)を継ぎ、裏千家の祖となった。

 この裏千家の祖、宗室が一時医家になるべく、幕府の医官、徳川秀忠の侍医をも勤めた野間玄琢に師事し、医学修業に専念したことは余り知られていない。宗室、医師名:玄室、十代の終わり頃から二十代半ば近くまでの事である。

医師としての修業時代は、師玄琢の死によって終わりを告げる。

 歴史を学ぶ者として、こうした個人の人生途上の偶然が、後世の歴史を生み出していく不可思議を改めて思う。もし、医師名玄室として一家をなしていたら、後世の裏千家も無かったかもしれない。当代の優れた医師につき、修業した玄室、彼が後に示した感性をもってすれば、そのまま医の道を歩み続けていれば、歴史に名を残す名医となったであろう。私たち、後世の者は、一名医を失い、一方日本文化史に脈々と残る流れを生んだ一茶人を得た。

 しずく塾の語らいが一段落したところで、養成塾の典座さんが点てて下さったお茶を頂きながら、このような人生の偶然に、歴史の必然に、想いを馳せた。

 翌日、梅雨の氣をしっとりまとった白山の山懐、ブナの杜を訪ねた。30数名の年齢も、いのちの風景も様々な方々がご参加下さった。

 この方達の、杜のまなざしに包まれるひとときの、念い深く、なごやかに、すこやかに、ゆたかな刻であれと願う。

 前日の茶室でのしずく塾のひとときも、正に一期一会。ブナの杜でのひとときも、いのちひとつらなりの一期一会。

 アメリカ人女性、ノーマ・コーネット・マレックの書き遺した詩 ″Tomorrow Never Comes” (邦訳:「最後だとわかっていたなら」の一節が、ブナの杜の緑の中で胸に浮かんだ。

    I hope we never will forget.

 Tomorrow is not promised to anyone, young or old alike.

And today may be the last chance

You get to hold your loved one tight.

「私たちは忘れないようにしたい。

 若い人々にも、年老いた人々にも、明日は誰にも約束されていない事を。いとしきものを抱きしめられるのは、今日が最後になるかも知れない事を。」

 一期一会は、人と人の間の事だけでは無論ない。諸々の存在とも、この「ひととき」とも一期一会である。

 杜のまなざしに包まれ、杜に抱かれ、杜を抱き、このひとときを抱いてここに在る事。

 一期であるからこそ、いのちひとつらなり。

一会であるからこそ、いのちひとつらなり。

明日に悔いることなきよう、今に心を尽くして。

 ブナの杜を出でて、里に向かう頃、穏やかだった曇り空から、雨粒が送られて来た。路傍のガクアジサイが、雨粒に彩られ息づいていた。

                             樹遷 記

杜のまなざし(19)

~夏至・乃東枯るる~

 次回の杜のまなざし塾は、丁度夏至の候に当たる。白山に抱かれたブナの杜にご挨拶に行く。沖縄では、この頃「かーちーぺー」(夏至南風)と呼ぶ風が吹き、本格的な夏が始まる。本州では、梅雨本番。

 二十四節気では、夏至の初候、「なつかれくさかるる」と。乃東(なつかれくさ)とは、生薬としても使われる夏枯草(かごそう)、別名うつぼぐさ。

冬至の頃、芽を出し、夏至の頃、花咲き枯れる、故になつかれくさ。

 さらさらと、樹の幹を伝って雨水が流れる、梅雨のささやかな雨は身の内も外も洗い浄めて快い。ブナの杜は更に、梢の天蓋が雨の勢いを和らげ、些かの雨なら音をひそめ、ひっそりと静もっている。

 縄文時代、人々は二至二分(夏至・冬至・春分・秋分)を意識していたように思われる。縄文遺跡の中には、日常生活に直接関係しない、モニュメントとでも呼ぶしかない配石遺構(環状列石)や盛り土遺構、木柱列が見出される。最も古い例の一つ、縄文早期の瀬田裏遺跡(熊本県)などは、長軸を東西にした長方形に石が並べられ、東方に阿蘇山を望む様に作られている。

縄文中期後葉の田篠中原遺跡(群馬県)の環状列石からは夏至に浅間山に沈む太陽を望む事ができる。後期になると、東北に大規模な環状列石が現れるが、その代表例とも言える大湯遺跡(秋田県)の万座と野中堂と呼ばれる二つの環状列石の中心を結ぶラインは夏至の日没方向と一致するようになっている。

木柱列では、よく知られた縄文中期前葉の三内丸山遺跡(青森県)のクリの巨木で作られた木柱列は、長軸方向が冬至の日没、夏至の日の出方向をとっている。

 縄文の人々がどのような夏至の祭りをしたか、出土遺跡だけから思い浮かべる事は叶わないが、一万二千年ほど続いた縄文期に私たちの季節感はしっかり身の内に刷り込まれているのではなかろうか。

 夏至の候、ブナの杜に立ち交じりながら、そうしたことに思いを致してみるひとときとするのも良いかも知れない。

多くの方々のお出でをお待ちしています。          樹遷 記

杜のまなざし(18)

~青嵐麦秋を駆け抜ける候~

 立夏の末候にあたる五月第三の週末、久々に金沢、湯涌の里で第9回にあたる養生塾を開いた。この時期、沖縄では旧暦(旧4月15~16日頃)の行事として、アブシバレー(畦払い)が行われる。田畑の虫追いの行事だが、かつては集落の女性祭司ノロが取り仕切った。その日が今回開塾の日となった。

 今回も親子連れのご参加が数組。養生塾には、他の参加者を患わせないと言う約束事以外、何の強制も義務も無い。塾期間中の色々な事もその間休みたい方は、部屋に戻って昼寝するも良し、近辺を散歩するも良し、ただ木漏れ日を浴びながらぼーとしているも良し。といつも申し上げるのだが、我々日本人の律儀さ、大人は殆ど熱心に全てに参加なさる。時には、私の方が、折角木陰に気持ちの良いそよ風が吹いていますのでうたた寝させて頂きます、と云いたくなる。その点、子ども達は正直、関心のあることには、目を輝かせて参加するが、退屈すると外に遊びに行く。子どもの陽気な、親や大人の干渉のないのびのびとした遊びの声は快く響いてくる。子どもと遊びに興じた良寛さんを思う。

 その様な塾風景の中にも、季(とき)の氣に体内気象が応じていないしんどさを心身の諸症状として感じておられる方々がおられた。

『五月病』と世の中では言い習わされて来た。

今までは、新入学生や、新入社員が新たな状況の中で、当初の緊張感も解け、GWで生活リズムを崩し、中にはそれまでの慣れぬ事の中で奮闘した疲労の蓄積、人間関係の気疲れなどなどが重なり、心身不調となり、不登校や、不出社、又は無理を重ね燃え尽きてしまう若者たちの状態を指して使われた表現である。

今日では、この表現は、新入学生や新入社員のみならず、一般にこの時季に不調を感ずる症候を指す季節病の一般用語となった感がある。

 青葉の茂みがその濃さをますこの季節、人間の体内でも冬の間と打って変わり、ホルモンの分泌、代謝が盛んになる。それに加え、気象の急激な変動、先に述べた個人を取り巻く社会的環境の変動、慣れぬことのストレスの蓄積などが作用し、殊に既に体調を崩し気味であった方々に心身の不調が現れてくる。

 今回の養生塾では、このような心身の状態を調える食息動想についてお伝えした。またこれからの季節、急激に気温が上昇し、暑さにまだ慣れていない身にとっては、ひとしお暑さがこたえ、熱中症にもなりやすい。そうした方々への配慮も籠めて、氣食のレシピをお教えした。

*氣食のレシピについては、別稿『氣食暦』に掲載します

 それにつけても、しばしば思うことだが、近代日本は何故春4月を年度の始まりとしてしまったのだろう。殊に入学式を春に持って来たのは、桜の花咲く頃ということばかりが主たる理由でもあるまい。やはり稲作農業の田植え時季とのかかわりであろうか。

では、稲作農業が日本列島に入ってくる以前の縄文期は、縄文人達はどのような一年のサイクルで過ごしていたのだろうか。考古学徒としては考えてみたくなる。自然に濃密に依拠して生きていた縄文の人々は、どうも二至二分(夏至、冬至、春分、秋分)を基準に、365日を二つの区分に分け、太陽の盛衰を年の始まり点としていたようである。では、その年の始まりのうちどちらがより大切に祀られていたのだろうか。

遺跡から見えて来る彼らの年間サイクルから、やはり森の実りの秋を迎える夏至~秋分以降がより重きを置かれていたように見える。

 再び、現代に戻れば、昨今は秋期入学を取り入れた大学も増えて来ているが、高校卒業から、直ぐに大学入学更には一気に階段を上る様に就職と事が進んでいくのを当たり前として来たが、おしなべて年度の始まりは4月という社会の効率のみを考えた有り様から、人生経験の幅を拡げる時間を持てる個人の実りの時間を大切にする考えが少し認知されるようになってきた証しであれば良いのだが。

人生の春夏秋冬にも、二十四節気で各季節の変わり目に次の季に移る迄の間に土用という調整の期間がある様に、人生の節目で緩やかに調整をする期間があって良いのではと思うのだが。

 さて、今回の養生塾の話に戻ろう。塾会場の裏手の山は気持ちの良い森が茂り、既に何度かご参加の方々は、その森での朝の氣功を楽しみにしておられたようだが、数日前に近辺で熊に噛まれた人が在ったと云うことで、全山入山禁止と云うことであった。

 野生動物と人間のこうした不幸な関係については、いずれ別稿で書くつもりです。

 青嵐の麦秋の畑を駆け抜けて行く日、今回の養生塾は穏やかに終えた。

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エッセイへの投稿、感想、養生塾へ参加された方からの

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tokinotabibito2017@gmail.com

杜のまなざし(17)

 「氣の地理学」~風水~

 北陸の杜のお仲間とのご縁で、北陸の地に通う様になって一年余が過ぎた。宿は、時により、金沢の繁華街から一筋入った町屋のこぢんまりとした宿だったり、小松の宿であったり。

 いつも、集いや催しに追われ、ゆっくり町を探訪するゆとりもなかった。

それでも、金沢や、小松の地の氣の独特な気配を感じていた。一日、予定していたスケジュールがキャンセルとなり、ゆっくり小松や金沢の氣を味わいながら探訪する機会を得た。

 東アジアには、古代中国(殷・周代)に淵源を持つ、風水の系譜がある。

永い年月の内、様々な派が生み出された。正に百家争鳴の感があるが、端的に言えば、人体に気の流れ道、経絡があるが如く、また氣の集まるところ、経絡の集合交差するところ、ツボがある様に、大地にも気の流れ道、氣の集まり溜まるところ、気の流れが集合交差するところがあると考え、これを川の流れ、地下水の脈、山や丘陵の形状、山氣や森の氣などを俯瞰して読み取る、氣の地理学ともいうべきものである。

この氣の地理学で、金沢や小松の街の成り立ちや、殊に金沢が江戸期を通じ繁栄した秘密を読み解いて見たら面白かろう、とうっかり口にしたところ、是非、その金澤氣巡りやりましょうと、いつの間にか企画が出来上がってしまった。

過日、春の陽気に桜もほころぶ金澤の先ずはお城のほとりからこの氣巡りが

始まった。金沢の地に生まれ育った訳でもない、金沢の歴史も詳しく知らぬ私が、この様な企てをするというのは、甚だ烏滸がましいかとも思ったが、今日ともすれば忘れ去られてしまっている、金沢の城を築いたり、街作りをした当時は、人々の意識にあった氣の地理学、風水から観ると、このように見えます、と言う事は、氣の世界を些か心得ている者の言として許して頂こうと、先ずは金沢のお仲間が用意して下さった江戸時代の古絵図二枚を見ながら、風水による街造り、城の縄張りの取り方などの前講釈から始めた。

古絵図を読み解いていくと、加賀前田家には、よほど氣の地理学、風水に詳しい、謂わば軍師的人材がいたと見える。細かな説明は、続編で触れたいと思うが、その軍師的存在にキリシタン大名として識られる高山右近の名も見られる所が面白い。

さて、何故江戸三百年、加賀藩は今日に至るまでの繁栄を築けたのか、風水から観たその謎解きは、次回以降にて。 続く

杜のまなざし(16)

「治部煮」~風土の氣食~

 過日、春分の候、金沢の養生塾の集い、氣食に「治部煮」が出された。体内の気を季節の氣に寄り添わせる智恵、それが氣食。風土に育まれた食には、この智恵が詰まっている。

春の氣はもうそこにあるものの、北陸の地では寒暖往来のこの時期。未だ春の氣への転換準備が出来ていない方、冬の体の儘の方々、そうした方々への郷土の伝統食の智恵のレシピです。

 それにしても、じぶ煮と言う名前はどこから来たものだろう。

じぶ煮と言う料理名は、延宝二年(1674年)刊の『江戸料理集』に既に見られるという。もっとも名の由来には諸説あるようで、定説は無い。私個人としては、諸説の内キリシタン大名高山右近にまつわる由来譚に興味を惹かれる。

 秀吉の宣教師追放令に逆らい、信仰を棄てなかった為、当時播磨明石の城主であった右近は、城主としての身分を失い、浪々の身となった。その後、加賀藩主前田利家の招きを受け、その庇護の下に。

その折、右近と共に行動した宣教師の名前が「ジブ」であったという。また、一説にフランス料理のジビエからとも。

どちらにせよ、真鴨の肉を使った(高貴な身分の方々は鶴の肉を用いたとか)この料理は、高山右近やキリシタン宣教師との係わりから生まれたものと想像してみると、金沢の郷土料理として定着した歴史の味わいも楽しめる。

 さて、当日の「治部煮」、氣食担当の方々の粒々辛苦の工夫、風味豊かな一品であった。*

 *養生塾春分の候氣食のレシピについては、別稿『氣食暦』に後日掲載します。

 キリシタン宣教師のエピソードから連想が広がった。

先日、ポトフを食べさせるというカフェを知り、食べに立ち寄った。

かつて、20代から30代の十数年をフランスで過ごし、バカンスで招かれた友人の家で、友人のお母さんやお祖母さん手作りのポトフに舌鼓をうった。食卓を囲んで、みんなでフウフウ云いながら味わった家族団欒の味。懐かしさに食してみたが、残念ながら、ポトフというには程遠いものだった。

Pot au Feu(火にかけた鍋)、ドイツでは、アイントプフという同じ様な料理がある。色々な野菜と、肉の煮込み、フランス人にとってはそれぞれの家庭の味があり、家庭料理の代名詞とも言える。

しかし、キリシタンの遺したジビエ料理が治部煮になったとしたら、何れ北陸の郷土料理としての「ぽとふ煮」も生まれるのかも知れない。北陸の地で、郷土料理となったそのレシピはどんな風味を醸しているだろうなど、あらぬ想像をしてみている。

杜のまなざし(15)

 「抱護」

 抱護という言葉に出会ったのは、沖縄で読谷村の各字の文化財マップを作成する作業を手伝っていた時である。

 ウチナーグチでは、「ほうぐ」とも、「ぽうぐ」とも。

字の古老に戦前の集落について、聞き取りをしていると、この「抱護」について語られることがあった。また、戦前の集落の絵図などを見ると、集落周囲に木々が繞らされ、抱護と書かれているものもあった。

 その抱擁し、守るという言葉のイメージの優しさが心に響いた。

残念ながら、沖縄戦、その後の米軍による土地強制収容、基地建設などで抱護の多くは失われた。本土復帰以降の開発が抱護消失に止めをさした。

 現在抱護の名残を見ることが出来るのは、沖縄本島では本部半島の備瀬の集落、宮古群島の多良間島、離島の開発の及んでいない海岸そして山原の森などである。

 今日、抱護は防風林や、防潮林などと理解されている。「抱護林」などと表現する方もある。しかし、抱護について調べて行くと、どうも単なる防風林や防潮林とは、結果としてその様な働きもするが、根本の思想が違うと思えて来た。

 詳しく解説するには一書をもってしなければならないが、端的に云えば集落景観、山林景観、島全体の景観を形成する根本思想である。自然を抱き、自然に抱かれる。人間と自然は生命体として平等な関係にあるという精神がそこにはある。

 因みに、この「抱く」という概念は、沖縄の精神世界の根底をなすもののように思われる。八重山の古謡に、「潮を抱いておられる大親・島を抱いておられる大親」、「弥勒世を抱き下ろした・神の世を抱き下ろした」、「親村におし抱かれて」などの言葉が波照間島、竹富島、石垣島新川村などの歌謡に唱われている。また、琉球古典舞踊では、「甕を抱くように踊る」ようにと心得が教えられているという。「琉球文化の基層には、人々を抱き、集落を抱き、島々を抱き、宇宙を抱く、という壮大な生命観が宿っていて、それは言い換えれば生命繁盛の精神文化といえる。」(仲間勇栄2012)という文章に、美事にその本質が書かれている。抱くという、本質的人間の優しさの風景。

 「抱護」の概念は、本来中国由来の風水思想にある。

「抱護」と言う用語は、近世沖縄の傑出した琉球王府の政治家(三司官:現行の国務大臣にあたるだろうか)にして、沖縄の山林を荒廃から立ち治らせた卓越した森林行政の指導者でもあった蔡恩の活躍以降、文献に現れることから、蔡恩によって沖縄の精神世界の根底にある「抱く」思想と結びついて、沖縄独自の風水的景観、自然観が産み出されたと思われる。

 風水は、ともすれば迷信の類に見られがちだが、中国周代に始まり広く東アジア文化圏に伝播した「氣の地理学」ともいうべきものである。

この風水の抱護という概念を、沖縄の自然環境、夏に頻繁に襲来する台風、冬の北よりの強風という厳しい自然環境条件を和らげる智恵として、また当時荒廃しきっていた沖縄の山林を復活させる実践として工夫したものがかつての沖縄の景観を織り成した「抱護」である。

 

 抱護には、屋敷林とも言える家周囲を囲む福木:屋敷抱護、集落には集落後方の「腰当て嶽」「腰当て森(クサティムイ)」のウタキ(聖域)や先祖の墓地のある森を起点に集落を囲む様に繞らされた林帯:村抱護、海岸域のアダン、オオハマボウ、クロヨナなどで形成する浜抱護、もっと広くは行政区域全体に及ぶ様な間切抱護まである。

長浜集落の屋敷抱護

 現在残された各地の抱護に行って見ると、どんなに風の強い日でも、抱護の中は柔らかな風がさわさわと渡り、荒れた海の海鳴りもかすかに聞こえる程に和らげられている。暑い夏も、抱護の木陰は涼しく、湿度もそれ程感じない。

 浜抱護、間切抱護、村抱護、屋敷抱護と多層の林帯に囲繞され、現代的に云えば、その多様な植生を住み処とする生きものたちを含め、生命の多様性に抱かれて人々の営みは守られていた。

 山林においては、山林風水の要諦として抱護が語られる。

具体的には詳細な育林技術が残されているが、これも端的に言うならば、今日自然を個別化、単純化、無機化して経済的対象物化して来た結果、様々な森林環境問題が生じているが、風水では自然は、人の活動とも一体となった総合化された有機的なものととらえ、その全てを抱き護る環境作りに最大の配慮が払われている。

 沖縄本島北部には、ヤンバルと呼ばれる森林地帯がある。

ここは、何世紀にも渉り人間の活動が行われ、利用されて続けて来た歴史がある。にも関わらず、貴重な生物が人間生活と共存してこれた背景には、総合的、有機的、循環的、持続的な概念を包括する山林風水、抱護の思想が大きく寄与していると言えよう。

 「抱護」、「ハグ」を連想させるこの智恵は、持続可能な社会、循環型社会が問われる今日、大きな指針となるのではないだろうか。

樹遷記

 

*本文を書くに当たり、元琉球大学教授、森林文化論、森林政策学ご専門の仲間勇栄先生に親しくご教示頂いた。

杜のまなざし(14)

 始雪・終雪

 今年、2018年の北陸養生塾は、一月の大雪の中始まった。

真っ白に降り籠められた、その翌朝は青空の下、銀世界が広がっていた。

12月、冬至間近の2018年締めくくりの養生塾も、雪にいろどられた。

 わずか7人で始まった北陸養生塾も、回を重ねる毎に各地から様々な方々のご参加を頂いた。遠くは北海道、屋久島からも馳せ参じて下さった。

七人から始まったものが、今回塾の食卓を25人が囲んでいた。年齢層も様々小学生から70代まで。豊かな氣の大家族が、和気藹々と食卓を共にした。

 この一年、第一回からの参塾者は、一人も欠けることなく歳納めの今回まで毎回ご参加下さった。こうした方々、そして準備から、塾の進行様々な裏方の作業を厭うことなく、塾の実現に努めて下さった塾頭の樹伯さん、養生塾にご参加頂いた全ての方々のお陰で北陸の『杜のまなびや』はこの一年間を豊かな氣縁の実りとともに無事終える事ができた。

 北陸の『杜のまなびや』は、新たな年新たな氣縁を楽しみに、一期一会の養生塾を一つ一つ成就して参ります。養生塾は、参塾者皆様によって産み、育まれる氣縁の場です。多くの方々の参塾お待ちしております。

 2019年は、1月と9月を除き、ほぼ毎月杜のまなびやは開催されます。

参塾ご希望の方は、下記連絡先にご連絡下さい。

皆様とお会いできる日を楽しみにしております。

良いお年を。                        樹遷 記

連絡先:090-2039-4390(担当;樹伯)

尚、杜のまなびやの風景は、以下のホームページでご覧頂けます。

 ホームページ名:「養生塾北陸の集い」


杜のまなざし(13)

背く子・背かれる親

  雑草という草はあらず

 「雑草という草はあらずといひたまいし

         先の帝をわが偲ぶなり」

常陸宮妃華子様のお歌である。

 昭和天皇のお人柄を偲ばせるエピソードだが、那須の御用邸で夏を過ごされ、吹上御所に戻って来られるというので、御所建物周辺の草をきれいに刈っておいたところ、帰ってこられた昭和天皇「どうして草を刈ったのかね」とのお尋ね、「雑草が茂って参りましたので」と応えた侍従に、「雑草ということはない」「どんな植物でも、皆名前があってそれぞれ自分の好きな場所で生を営んでいる。人間の一方的な考え方でこれを雑草として決めつけてしまうのはいけない。」と諭されたということである。

 同じ様な話が、植物分類学の泰斗牧野富太郎にもあるが、このエピソードは、晩年の昭和天皇を彷彿とさせるものである。

 触れもせず、嗅ぎもせず、愛でもせず、名も知らず、先祖たちがその植物とどう関わり合ってきたか、その植物にどんな風に「お世話」になってきたか、知らぬ存在は、身の周りにあっても、見向きもせず、素通りしてしまい、ひっくるめて「雑草」としてしまう。

 名前を知ると、その草花がある風景は一気に親しみを増し、時にはこんな所にもいてくれたね、と懐かしささえ覚える。ましてや、今でこそ人々の生活とは縁遠くなっているものも、かつてはご先祖たちの生活の中で大切な役割を果たし、恵みをもたらして下さっていた事などを識ると、ひとしお愛おしく、有難く思えてくる。

 植物の存在無ければ、私たち動物の生は成り立たない。所が、それほどの恩を受けながら、私たちはともすれば「雑草」と一括りにして切り捨ててしまっている。

 植物の知性について研究をしているステファノ・マンクーゾが、この人間の植物に対する忘恩について面白い仮説を唱えている。少し長くなるが引用してみよう。

 「人間と植物は、大昔から絶対的な依存関係にある。親子の関係に似ているかもしれない。子どもが成長すると、特に思春期には親に頼ることをまったく拒否する時期がくる。これは、親から自由になって自立心を育てるために必要な段階で、のちに本当の自立を手に入れるための下準備でもある。人間と植物のあいだにも、これと同じようなメカニズムがはたらいているのではなかろうか?もちろん細かな点は親子関係と異なるが、それでもこの考えを完全に否定することはできないだろう。ほかの人に依存するのは、だれだっていやなものだ。依存は、弱くて傷つきやすい立場のときに起こる。たいていは、自分がそんな立場にあるなんて思いたくはない。

 依存する相手を憎むのは、依存関係のせいで完全な自由を感じられないからだ。ようするに、私たちは植物に依存していながら、その事実をできるかぎり忘れようとしている。それは、自分たちの弱さをまざまざと思い知らされるのがいやだからではないだろうか。」

 マンクーゾの仮説は、人の植物に対する「心理的ブロック」の根本にあるものを仮説ながら明らかにしてくれる。と同時に、最近の社会現象に思い至るきっかけをも与えてくれる。

 最近、私の身の周りも含め、若者たちの失踪や、大学を休学、退学し親からの支援を拒否、職について親とのコミュニケーションをも取らなくなるケースをしばしば見聞きする。

 そうした若者たちの行動の根底にあるのは、マンクーゾの指摘していることなのではないだろうか。背く子も、背かれる親もこのマンクーゾの仮説の説く心理的ブロックに気づいていないことが、この社会現象を理解しにくく、また子も親も互いにコミュニケーションを取り戻す道筋を見えなくしてしまっている原因の様に思える。

 

 自主自立は、生きて行く基本には違いない。しかし、真の自立は、他の諸々のいのちとの手つなぎによってはじめて成り立つことを忘れてはならない。若者たちよ、自主自立を急ぐあまり、他の諸々のいのちによってこのいのちが今、ここに成り立っている事を忘れないで下さい。もっとも身近ないのちがささえあってこそいのちは成り立つのだから。いのちはひとつらなり、それを忘れた自立は他のいのちの切り捨てに向かう。

 雑草という草はあらず、もう一度周りを見回して、名を呼びかけ、対話を試みて。まわりのいのちの思いや、どのように生きて来たか、その様な事を知るにつれ、今まで気づかなかった、どれほどその他者に支えられ、恩を被ってきたかに目が開かれるかも知れない。

杜のまなざし(12)

 「樹恩」

  樹恩と言う言葉を、お教え下さったのは柏樹社の中山社長だった。樹医の山野忠彦翁も樹恩という表現をしておられた。

 1990年柏樹社より出した『愚者の智恵』あとがきを少し長くなるが、引用させて頂く。

 「人類中心的価値観は、人類以外の存在がコミュニケーション能力を持ち、ましてや判断力を持っているということを、永い間、容認することが出来なかった。人類の持つこうした認識の枠組みの狭さがどれほど多くの事実に対して私たち自身を盲目にしてしまっていることだろう。

 みどりがなければ、私たちはこの惑星上に今あるような形では存在しなかっただろう。地球上にみどりが発生して以来の、長い長い歴史の中で我々は育まれてきた。その間、意識する、しないにかかわらず、みどりと交流しながら、私たちは人類というものにまで至ったのである。いまや、私たちは、このみどりと交信し、理解し合い、癒し合うことができるかどうか問われている。」

 30年近く前の文章である。

この本発刊当時、「ロマンですね」と鼻先であしらわれることが多かった。

 ステファノ・マンクーゾという研究者がいる。

イタリア、フィレンツェ大学農学部教授、国際植物ニューロバイオロジー研究所の所長でもある。この植物の『知性』研究の第一人者の研究成果は、これまでの人間中心主義の生命観、価値観を大きく転換するものである。

脳も無い植物に知性がある!?と大半の方は反応されることだろう。

 「知性」という言葉を、『問題を解決する能力』と定義できるとしたら、植物は知性をもっているだけではなく、その知性は輝かしく素晴らしいものであることをマンクーゾ氏は、その研究成果を持って証明している。

こうした植物の知性について定量データに基づいて初めて科学的に示したのは、チャールズ・ダーウィンである。

 植物の知性に関するマンクーゾ氏の成果についてお知りになりたい方は、

氏の著書“Verde Brillante”の翻訳「植物は<知性>をもっている」をお読みください。

 ここでは、マンクーゾ氏も著書で触れている別の事実を述べておきたい。

地球上のバイオマス(個体の総数ではなく、生物の総重量)のうち、多細胞生物の99.7%は、人間ではなく植物が占めている。人間と、全ての動物を合わせてもわずか0.3%に過ぎない。

 マンクーゾ氏も指摘している。「われわれこそが地球の支配者であり、地球を自在に操る力をもち、ほかの種よりも大きな権利をもっている」という人間の思い上がった考えと、この事実の矛盾を。

 「植物は、私たち人間がいなくても、なんの問題もなく生きることができるのに、私たちは植物なしではたちまち絶滅してしまう。」というこの植物学者のつぶやきも、それを真に理解しているのは人間たちではなく、植物たちなのかも知れない。

 私たちは、植物に依存して生きている。樹恩、草恩、もろもろの緑恩に深く頭を下げる他ない。 樹遷

「杜のまなざし」(11)

「養成塾の風景」④

 第4回養成塾は、再び初回に合宿した金沢の郊外、今回は六月初夏の候、前回と打って変わって、豊かな緑がみんなを迎え入れてくれました。

 『氣の家族』ということを、樹遷さんはよくおっしゃるのです。「これ迄は、血縁、地縁の中で人々は生きてきたが、これからは氣縁というものが大切になってくる」と30年前、最初にお会いした頃から語っておられた。

氣縁によって生み出される場、その居場所が人生を豊かにするんですというお話。正に、それを感じた養成塾でした。参加者みんなが来ると異口同音に、ただいまー!で始まるんです。

 自他の区別がなく、皆昔から兄弟だったような。オープンな、互いにいたわり、いつくしみ合う関係が、共有する時間の隅々に自然と見えるのです。

家族や地域、職場でもなかなかこんな関係は見られません。

 「これから日本は、多くの人々が、孤立化していく。そんな時代の流れ、氣を縁として、絆を育てていける場を、今作る必要が目前にあります。」と、養成塾の冒頭に樹遷さんが語られていたのですが、その意味がこうして見えてきた気がしました。

 『下医は病を治す、中医は人を治す、上医は知らずして時代を治す。』その様な言葉が、東洋医学の伝承にはありますが、正にこの養成塾は、20年後の孤立化の深化した日本社会を癒し、治していく、最初で、そして本質的なムーブメントになるなと、そのために樹遷さん、今、この養成塾を始められたんだなと、お世話役をしていてやっと見えてきました。

 初回からの連続参加の皆さん、人はこんなに短期間で、こうも変わるのかと、ある意味驚きの連続。表情が、立ち居振る舞いが、言動が。氣が変わってきたということなのでしょうが、皆本当に穏やかで、呼吸も深く、そして何より周りへのまなざしがとても優しくなっているのです。

 養成塾は、いのちを養うということ、先ずは自分のいのちを養う=すこやか、という風に考えがちです。私も当初はそんな理解だった様に思います。けれども、季節毎の養成塾開催を重ねる、その都度、樹遷さんから季節の変化の味わいや、自然を大事にしてきた日本人の文化の深さ、そして諸々のいのちと交流することの楽しさなどを、知識ではなく、生身で教わり、体感しているうちに、私たち一人一人の、自然と共に暮らしてきた先祖からの眠っていた「遺伝子」が目覚めたのでしょうか。「自然と共にある我がいのちが愛おしい」、そんな言葉を参加者から聞くようになりました。

 この回は、最終日に参塾者以外の、一日参加の方々も含め、杜のまなざし塾が組まれて医王山の杜に入らせて頂きました。その杜で皆さんが佇む風景は、まさに、自然と共にあるいのちの豊かさ。『ひとつらなりのいのち』という言葉を体感し、そこにあるすこやかさを味わったひと時だった様に思います。

 今回は、塾を支える裏方として、男女の若者が初参加してくれました。

彼らの働き、この間の成長ぶりにも深く感動し、喜びで一杯になりました。その彼らの姿を見ながら、参加者の皆さんが、「いのちを養うとは、自分1人が元気になることではなく、人々のいのちが豊かにはぐくまれること、皆が穏やかに安らげるようになる生き方、更に付け加えるなら、人のみならず、自然界全てのいのち達とも豊かに生きあっていけるような生き方を身につけること、そのような「まなざし」を持てるようになること。それが、養生(ようせい)の思想、念い、哲学ではないだろうかと。

 『いのちは常に双方向(でもあり総方向でもある)。』樹遷さんは常々こう述べられています。養成塾も、樹遷さんと参塾者の一方通行の関係ではなく、参塾者間、参塾者から樹遷さんへと、こうして思いや、知恵のやり取り、紡ぎあいのある場でもあるのです。「一番学ばせて頂いているのは私だろう」と樹遷さんはおっしゃいます。

 この文章を書くにあたり、改めて樹遷さんの書かれた「樹遷の養成塾」という文章を読み返して見ると、そこに既に書かれていました。

『宇宙自然、もろもろのいのち、自然の摂理、いのちひとつらなりを認識し、深めていくなまみの哲学、その体現。』と。

当初は、この文章の意味を、私は頭でしか理解していなかったのですが、一連の養成塾にお世話役として、参塾者として参加してきた今、この文章の意味、養成塾の目指すところがはっきり見えてきた気がしています。

 全てのいのち達と、豊かに、そしてすこやかに癒しあっていく喜びと安心、信頼の生き方、東洋的に言えば、『道』でしょうか。

養生(ようせい)の道、それは自然の一部としての自分を体感、認識し、謙虚に微笑み一杯に人生を生きていくこと。今、この間の体験を通して、私の魂に湧いてきた言葉です。

 今後、養生塾には、生育老病死、様々ないのちの風景にある方々が参加されることと思います。それぞれが今を大切に、共に癒しあって、すこやかに生きあっていける、氣縁の居場所。

自然に寄り添い、全てのいのちを敬い、いのちの波に逆らわず、老い、病、死さえも尊く受け入れていける場。

いのちひとつらなりという、いのちの本来が当たり前のこととして語られ、その様に暮らしていく生き方を深められる場。

 この養生塾が、これからの日本、否世界において必要とされ、大事なものと学ぶ人々が増えてくることを確信しています。その始まりが、私が生まれ育った、この石川から始まることに喜びを感じています。

終わりに、こうしたご縁を頂いた樹遷さんに改めて心からの感謝をお伝えし筆を置きます。

 お読み頂いた方に、少しでも養生塾の風景が届けられたら、有難く思います。

樹伯 記

「杜のまなざし」(10)

 「養生塾の風景」③

第3回養生塾は、前回とは趣の異なる街中の公共施設での開催。

『氣食』がテーマに。食息動想を整える事は、すこやかないのち調えの基本。

 養生塾では、季節毎のいのちの調整、「四季調整」を樹遷さんと過ごす時の流れの中で学んで行きます。中でも、食による整えは、季節の変化、自然の恵みに感謝しつつ、東洋医学の五味五性のバランスを図り、日々の食材で氣をすこやかに巡らせ、季節に寄り添ったいのちつくりの知恵の粋を集めたものです。

 養生塾の毎回の食事は、樹遷さんからメニューのヒントや、アドバイスを頂きながら、この氣食を参加者みんなで工夫しながら一緒に作ります。

今回は、改めてこの氣食の考え方、基礎理論を講義して頂き、参加者皆、成程と各々の日々を思い返して、東洋の知恵に感じ入りました。ただの理論知識ではなく、この氣食も含め、お伝え頂く息、動、想、わずか2日間の合宿で、からだに心に毎回変化があるのが、日々活かせる知恵として体にすとんと納得の行く、体得が凄いです。『氣』って、本当に不思議とは、参加者のご感想。

 養生塾は、病気治しが主眼ではありませんが、この度は癌をお持ちの方々もご参加頂きました。

様々な体験を経てこられた樹遷さんの語られる言葉の中に、「すこやかに生まれ、すこやかに育ち、すこやかに病み、すこやかに老い、すこやかに死す」があります。最初の二つは、誰しも思う事ですが、老病死にすこやかにということは思い至りません。しかし、老病死もいのちの波。波だからその揺らぎの中にあるいのちを愛おしく、静かに受け止める。その中にすこやかないのちの風景はある。

こうした樹遷さんのお話は参加者の心に深く響いたようです。

 この会は繰り返しになりますが、治病でも、気功の技を身に着けることでもありません。気功や、氣食はあくまでも一つの手立て。その様な手立てを借りながら、すこやかに、他のいのちと共に生きていける知恵を、自然から学ばせて頂こうという謙虚な道なのだということ、参塾を通して思うところです。(続く)

 樹伯 記

*養生塾は、随時どの会からも参加可能です。また、宿泊参加が難しい方は、日帰り参加も可能です。

尚、今年は、10月5日~7日第5回養生塾、7日午後いやしあいの会、8日杜のまなざし塾を行いますが、12月にも第6回が予定されています。

 また、来年は、北陸養生塾は、年6回以上開催を予定しています。

詳細は、Tel:090-2039-4390 担当 樹伯までお問い合わせください。

「杜のまなざし」(9)

「養生塾の風景」②

 養生塾第2回は、年明けの1月、1泊2日の塾であった。

石川で何十年振りという大雪の中、キャンセル続出。樹遷さんも福岡からの飛行機が着陸できず、雲間からちらりと機影はみえたものの小松上空を旋回し、福岡に戻ってしまった。翌日、列車を乗り継いで何とか金沢にやって来られた。そんなハプニングだらけの中での開催だった。

しかし、終わってみれば、大成功。塾の会場は、公共の研修所だったが、大雪のお陰で私達のグループのみ、真っ白な雪化粧の中、本当に皆の心が一つになる二日間だった。

2日目の朝、太陽が白銀に差し込み、養生塾を天が祝福して下さっているよ、とつぶやかれた樹遷さんのお顔が忘れられません。

養生塾は、毎回何をするというプログラムがありません。参加者の顔ぶれや、当日の天候、皆の氣を観て、臨機に樹遷さんが進めて下さいます。

日々の暮らしの中で養生の智恵を育んでいって頂きたいという樹遷さん。一緒に生活を共にする事で、樹遷さんの生き方、息の仕方、ものの観方、接し方などなどを学べるのが魅力なのです。

この時の大雪も、主催するものとして慌てふためいていたのですが、樹遷さんの少人数で一人一人を大切にする会にしなさいと天が云って下さっているんだねと語って下さる言葉、そして降り積もる雪を穏やかに見つめる姿、そこからも色々なことが学べるのです。

 東洋では、昔から学びたい師匠を訪ね、生活を共にする事で、知識だけではなく、人柄や生き方といった人間とその知恵を学び取っていくことが大切にされてきました。この養生塾は、ある意味、養生の生き方、智恵を体現されている樹遷さんというお師匠さんと共に時間を過ごすことで、知識では身につかない、真の養生の智恵を身につけていく道場のようなものではないだろうか、この合宿を通して一番に思ったことでした。

 昔からのやまと言葉はとても大切ということで、初日の夜には、小正月ということで、百人一首のかるた取りをしたのですが、あれから参加者の皆さん、日本の歴史や、昔の人の生き方に関心を持ったと、古典を読み始める方も。

自然と共に生きていた昔の日本人に関心を持つこと、これも養生の道に通じる窓口です。

 事始めの合宿。雪に閉ざされていた事もあり、本当に凝縮した、そして皆の心が一つになった素晴らしいスタートとなりました。この時の参加者たちが、その後も全員フル参加なのも、きっとこの始まりの会で、何か本質的なものを感じたからではないでしょうか。参加者が書いて下さった感想文には、「言葉にはならないが、今回とても大切なことを」、そして「こんな穏やかな心をもてたこと」、「昔からみんなお友達みたいな」と、養生塾の基本の風景を美事に表現して下さっていました。

 養生塾では、樹遷さんの体現されている養生の智恵を、共に生活する中で、自ずから体感できます。しかし、それは何一つ強制されるものでは有りません。

何を学び、何を体解するかは、一人一人の自由に委ねられています、また、参塾者一人一人の提案や、生き積み重ねて来られた智恵も受け止められ、参加者皆の智恵として織り成されていきます。学びは、双方向であり、真の学びは自由自律にいたるからです。(続く)  樹伯 記

「杜のまなざし」(8)

 2018秋

丁度一年前の秋、北陸で養生塾の言挙げをした。

以来、回を重ねこの10月には、第5回の養生塾が行われる。北陸養生塾の塾頭樹伯さんから「養生塾の風景」という文章が送られてきた。私のエッセイではないが、杜の木魂の響きとして、ご本人の了解を得て、文章に多少手を入れさせて頂き、ここに4回に分けて、掲載させて頂く。

 「養生塾の風景」①

 養生(ようせい)の念いを伝えたく思う。樹遷さんから提案された。

養生(ようじょう)=予防医学!? そんな考えが頭をよぎった。そんな私を観てか、樹遷さんいわく、養生(ようせい)とは、病にならないためという消極的健康法ではなく、積極的にいのちを活かし、また自分のいのちだけではなく、森羅万象、自然界のすべてのいのちが豊かに育まれていく智恵なんですと。

 面白そう! 具体的にどんな風になるのかは想像できなかったが、今までの樹遷さんとのお付き合いの中で、何かこれが集大成のような気がして、養生の風景が見てみたい! 石川から始めましょうと、2017年の秋養生塾がスタートした。

 事始め、第1回目は、秋晴れの金沢市内の公園にて。

養生の念い、人と人が癒しあえるということ、そして自然ともひとつながりでいのちはあるというお話を交えつつ、生身で味わいましょうと、氣の交流などを行った。残念ながら私は所用でその会には参加できず、後で参加者からの感想やビデオでしか様子が窺えなかったのだが、「なんかほのぼのできた」、「体が軽くなった」、「人とこんな風に交流できるんだ」などなど。有難い感想ばかり。

実際、ビデオで見る参加者の表情が本当に穏やかで、幸せそうなのだった。

何か、これからの生き方に大切なものを学んだ気がするという参加者の感想が、次回開催に向けての自分の力となった。 (続く)   樹伯 記

※10月の北陸養生塾開催日程

  10月5日(金)~7日(日)

上記日程前後に、

10月4日(木)18:30より19:30しずく塾

10月7日(日)夕方より癒しあいの会

10月8日(祝)杜のまなざし塾

を、開催します。詳細は下記へ。

090-2039-4390 担当:樹伯

「杜のまなざし」(7)

 「悼惜」

 今春、立て続けに友人、知己を見送った。

90歳の長寿を全うされた、被災地で知り合った「友人」。一方で、10代のこれからという希望に満ちたいのちを事故で失った。その死の数日前に、電話でこれからの希望や、計画、夢を楽しそうに語ってくれた矢先の不慮の死であった。また、東日本大震災の被災地で、本人自身被災者でありながら、私達ボランティアと共に被災地支援の地域リーダーとして一緒に汗を流した40代の一家の大黒柱、コミュニティの柱でもあった友人、何の言葉も遺さず逝った。彼のみならず、50代の友人二人もそれぞれ自死を選んだ。

 私自身は、様々な現場で死を看取ってきた。

荘厳な死もあった。悲惨な死にも出会った。どんなに死に逝く人を送る体験を重ねても、他者の死に慣れる事はない。

 現代では、「服喪」と言う慣習は忙しすぎる日々の中で形式化し、忘れ去られがちとなっている。礼の根本として、「服喪」を重んじた孔子は三年間の服喪の儀礼を大切に説いた。一方では、形式だけに囚われた服喪のあり方は戒めている。今日、3年間の服喪は余りにも非現実的かも知れない。しかし、喪に服するとは、心の中で死者と親しく対話し、逝った者の不在を悼惜(悲しみ、惜しむ)する時間とするならば、こうした心の時間は大切にしたいものである。

 この春に逝った友人たちの初盆を祀った。間も無く、秋の彼岸。この時間の流れ、逝った人々との対話を静かに続けることにし、一切の講演、文章の発表を控えた。このエッセイ「杜のまなざし」もその様な思いで暫く発表を差し控えた。一方、この間、大阪北部地震、西日本豪雨被害、そして北海道胆振地方の地震と災害が続いた。その現場の支援活動だけは、死者の赦しを得て、現在も北海道の現場に身を置いている。

 ともすれば、「科学的思考」に馴らされた私達は、死は物質の消滅と思い込まされてはいまいか?

 「死は見ることの完成形だ」という言葉がある。人生の一部を共にした方々との悼惜の対話は、嘆き悲しみに止まることなく、その対話を通していのちの風景の深みを見る大切な時間であろう。服喪をないがしろにしてはならない由縁ではなかろうか。

 養生(ようせい)の思想は、いのちの風景としての死も愛おしく、大切に包摂していく。   樹遷

「杜のまなざし」(6)

~色の氣~(1)

 色の氣と言っても、色恋沙汰の話ではない。正に、色の持つ氣の話である。江戸後期から染め屋を営む「染司(そめのつかさ)よしおか」、古代色に関心をお持ちの方ならご存知と思うが、その6代目にあたる吉岡更紗さんの話を聞く機会を得た。先代の吉岡幸雄さんは同学で、その古代色探求の姿には常に注目してきた。様々な古代色の中でも、就中正倉院御物の紫染めの探求は、吉岡親子代々のテーマである。西洋では、紫染めにはアクキガイ科の貝の分泌腺(パープル腺)から採ったものを使った。貝紫である。日本では紫草の根を染料として利用してきた。

 漢方に詳しい方なら馴染み深い「紫雲膏(しうんこう)」という塗り薬の原料として使われていることをご存知だろう。紫雲膏、潤肌膏とも云う。局所の栄養状態が悪く、乾燥気味で、発赤、腫脹、浸出液が少なく、化膿していない肌トラブルに効能がある。紫根は、染料にも使われるが、解熱、解毒、殺菌、肉芽形成促進、抗腫瘍などの作用がある。

 かつては、日本全国に見られた紫草、万葉集の額田王の「あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る」を思い出される方も多いだろう。この紫野とは、紫の染料をとる薬草の群生する野原の事である。今では、紫草の産地も稀少となり、日本国内では絶滅寸前であるという。現在使われているものは、中国からの輸入もので品質にばらつきがあり、思うような染め上がりにならず苦心したと更紗さんは語った。

 ここに、志土知(しとち)という地名が登場する。かつては「紫土知」の字も使われたという。大分の山中、かつての阿蘇山や久住山の大噴火で噴出した火砕流に覆われた台地上にある。この地は、その土壌の特性により古代より紫草の採集地、栽培地として知られていたらしい。先の額田王の紫野もそうだが、紫野は紫草を栽培、管理する謂わば国営農場であり、野守によって管理されていた。『豊後国正税帳』にもこの地域を指す直入郡に薬草園があったと記載されており、収穫には太宰府使が視察に訪れたという。近年、この地で有志が紫草の栽培に着手した。その紫草によって染められた布を見た。正に、「紫の匂えるごとく」深い光を帯びていた。

 「服薬」という言葉がある。今日一般的には、薬を服用することと思われている。本来は、薬草で染めた衣をまとう意であろう。紫草の他、藍、紅花、黄蘗、クチナシ、一位(イチイ)と上げれば、全て薬としての効能を持つ。古来四季の移ろいの豊かな日本では、四季の自然の彩りを衣に染め、身にまとい、四季のいのちの整えとしてきた。

 吉岡更紗さんの話を聞きながら、身近な自然の四季の彩りの鮮やかな移ろいを生活景観から失った現代、私達はどのような色の氣による四季調身が可能なのだろうか、という思いに囚われた。

杜のまなざし (5)

 山守りびとたち

 かつて、山は賑わっていた。とはいえ、現代の都会の様な賑わい、騒々しさではない。遙かな時代の話でもない。第2次大戦前、まだ百年も経っていない頃迄の事である。その頃まで、山には山を生活の場とする木地師、漆採集人、炭焼き、猟師、煮炊きに使う柴を採る里人、更には山を修行の場とする修験者、今はおおかた忘れられた山越えの道を辿る人々、などなどが行き交い、時にはその人々が各地への文化の伝播者となった。そのかつての広葉樹に覆われた山には、それらの人々のたつきを支える豊かさがあり、様々な動物たちも豊かな森に支えられていた。

 1947年、私の生まれた年である。この年設立された林野庁は、広葉樹より利益あるものとして、自然林を伐採して用材杉を植林する計画を、戦後の経済成長に資するものとして打ち出した。ここに、日本在住の長いアレックス・カーの文章を載せよう。

 「....日本の景観はがらりと変わってしまった。今ではどこへ行っても、日本特有の自然林の明るく繊細な緑は少なく、まばらに残る自然林も軍隊式に林立した杉木立に侵略されようとしている。紅葉、桜、秋草、竹林、何千年にもわたって伝統芸術や文学の主題であり続けた自然、その無傷な姿を眺めることは、もうほとんど不可能になっている。文化的な損失は別にしても、杉の単純林は多くの野生動物を死滅させている。成長の早い用材林の落とす暗い影は下生えを枯死させ、鳥や鹿や兎や狸の生息環境を破壊する。....中略....地被直物を奪われた山の保水能力は低下し、山を流れ下る川は干上がっている。杉を植林した土地は浸食が激しく、それが崖崩れや川への土砂の流入につながり....」アレックス・カー著「犬と鬼ー知られざる日本の肖像」講談社刊

 先年、福岡県、大分県日田地域を襲った豪雨、山崩れの被災地に直後に入り、被災者の支援活動の傍ら、つぶさに山崩れの現場を調べた。あれは、林野庁が「推進」した人災である。

 西欧の森は、おおむね平地にある。日本は、森林を「山」と称するように、多くの森はこの山がちの国では山岳部に広がっている。縄文期には平地に森が広がっていたのだろうが、その少ない平野の森も農耕文化の伝播と共に、切り開かれ農地へと転換し、わずかに残った平野部の森は鎮守の森となっていった。

 日本は世界でも希に見るジオ多様性の豊かな地質である。一度日本の地質図をご覧になって頂きたい。様々な年代の、様々な地層がモザイク様をなしている。他の大陸の地質図と見比べて頂けば、一目瞭然にその違いがわかる。ヨーロッパ大陸の地質は日本と比べれば単純である。ジオ多様性の豊かな土地には、豊かな自然の多様性がある。ジオ多様性が単純であれば、そこに育まれる森も単純な様相となる。

 ジオ多様性故に、日本のかっての森は豊かな様相を示していた。また、豊かな植生は、多様な地質に応じて発達した。そのジオ多様性を無視した、ヨーロッパ型林学による単層林の植林は、根本を無視した矛盾を今露呈している。福岡、大分で発生した土石流は、花崗岩風化土、まさつちの土壌に植えられた用材林の崩壊に他ならない。

 戦後の経済復興の名の下に行われたのは、明治以来の富国強兵の強迫観念の亡霊のなせるわざではないだろうか。これまで、森林とジオ多様性の関連を殆ど無視してきた植林事業にも多大な疑問を感ぜざるをえない。

 世の中には、こうした林野庁の推進してきた植林政策に疑問を持ち、様々な自然林の復活、豊かな自然林の育んだ森の文化の復興に取り組んでおられる方々がいる。杜のまなざし塾のお仲間にも、三重の美杉の地で放置された山の間伐や、自然林への再植林、森の恵みを生かす活動を、20数年にわたり、多くのボランティアとともに実践してこられた方がいる。また、最近お会いした長野で林業にいそしむ傍ら、森の文化の復活を食や、その他の面から試みていらっしゃるかたもある。お二人とも女性である。森を壊した男性原理にたいし、豊かな森の復活に女性原理が働き始めている証しだろうか。

 本来、山に携わる人々は、「山の守りびと」であった。大きな生命循環の中で、山は清浄な大気、水をもたらしてきた。山を壊すという事は、生命循環を損ない、ひいては私達の生命も損なわれる事でもある。

 森林学者の四手井綱英氏の言葉を最後に載せよう。

 「植林政策は失敗だった。経済の高度成長時代に、林野庁は急成長の雰囲気に引きずられ、産業面にばかり気をとられた。....森林には産業以外の役割もあるという事実を完全に無視したのだ。木は経済的な利潤のためだけに存在するのではない。」

 次世代に向けて、我々は「山の守りびと」であったと語り継げるだろうか。

杜のまなざし (4)

 いやしあいの風景

私達が唱えてきた樹林氣功では、いやしあいの念いを根幹にしてきた。最近では癒しという表現がちまたに溢れている感があるが、30年ほど前に”みどりといやしのフォーラム”を企画した時には、癒しという表現を見て、これは新興宗教か何かの集まりですか、と怪訝な顔をされたものである。また、癒しというと、ヒトが癒されることのみ語られるのは今日でも変わりない。

 私達が、いやしあいの念いを根幹にしているのは、それがいのちの風景の本来のすこやかなありようだからである。すべてのいのちは本来、双方向、総方向である。ところが、教育の分野でも、医療の分野でも教える者、教えられる者、治療する者、治療される者の関係は一方向であり、それを双方とも疑いもしない。そんな関係性がいのちの風景として如何に偏ったすこやかでないものか問い直しもしない。更に、いやしあうのはヒトとヒトだけではなく、ヒトともろもろのいのちとの間にも有ることを我々人間は忘れがちである。

 そのいやしあいのなまみの感性を、一方では人と人の氣の交流で、他方では森の中に立ち交じらせて頂き、杜のまなざしに包まれながら拓いていくことを私達は願っている。そんな子供じみた幻想ですよ、と鼻先でせせら笑う方々もある。その方々は、現代社会の全ての社会機構が、必然の虚構の上に成り立ち、その虚構の危うい事実の中で我々はこの世を生きているという事に気づかないか、うすうす判っていても目をつぶっているかである。森羅万象という大きな精妙ないのちの網の中にささやかな一点として存在させて頂いていると云うことを、まるで非科学的な捉え方としてしか思っていない。

 真に科学的という事は、単に定量的に、定性的に現象を捉え、解釈するだけではなく、むしろ大きないのちの網を直感的に、なまみ感で感じとることにあるのではないだろうか?

 さて、ヒトとヒトのいやしあいに話を戻そう。アメリカで或る時スピーチを求められた。以下、その折のスピーチの一部を、後にエッセイとして書いたものである。原文のままで少し長いが、読んでみて頂きたい。

 ”Hug"

 For ordinary Japanese people, it is not a habitual act to hug or to be hugged by someone. When I visited France in my youth, I was shocked by their hugging and kissing so often.

Years later, I was in Calcutta(now Kolkata) to work as a volunteer in one branch of activities organized by Mother Teresa. My work was to seek dying people in the street of Calcutta every early morning, and take them to the place later called "House of Dying". Almost of them were past cure. They were dying. What we could do was to clean up their bodies sometimes covered with pus and leeches. After cleaning up, we put on them clean and comfortable clothes.

One day, I met an old man dying. Nuns were so busy because that morning we had many dying people. After praying for the man, nuns left him alone. I saw the furrows of grief in his face. The old man was in deep solitude. Unintentionally, I hugged him and stayed with him until he passed away. Just before his last breath, he opened his eyes and smiled so beautifully. Since then it has become my way to bless "the departure" of dying person.

After India, I went to several places in the world where I could help the victimes of war, natural hazard and social inequality. In each case, I met many orphans who had very deep hurt not only of their body but also of their soul. They were dying in their mind. For almost of them, a psychological approach by doctors was not enough effcient. One night I kept hugging the whole night a little boy who had been screaming nonstop even one minute. The day after, he stopped crying. I continued to hug him as possible as I could. First, he was just as a cold stone. A few days later, he became warm and soft. One day he laughed. It was first time that we heard his voice.

As a doctor of oriental traditional medicine, I often receive patients of serious illness or their family come to ask my advice. My advice is always finished with the following phrase. "First of all, please hug each other as often as possible." Last year, a family of a patient who had cancer of pancreas in terminal care came to ask me if they could cut a prescription of painkiller and give him ordinary life for his last moment. The patient was a doctor, a specialist of cancer. I went to see him and adviced him, "Please hug with your family." He told me, "Doctor, I never hugged my son, my daughter..." According to the family, in his last ten days, he rarely had pain without painkiller and enjoyed those days to hug each member of family as often as possible.

Nowadays, many of doctors can not even touch their patients. From many researches, healing touch give us beneficial effects, such as increasing the power of resistance to disease, decreasing pain, being emotionally stable and so on. Each time when I give a lecture for medical staffs, I tell them, "Hug! Hug your patients! Hug your colleague! Hug your family! You will find not only your patients but also yourself healed."

大変拙い英文であるが、いやしあいの念いはお届けできたであろうか。

杜のまなざし (3)

 早、20有余年になる。ある日、一人の青年が訪ねて来た。志は有るが、進むべき道を見いだせぬ心の揺らぎがそのまなざしに感じ取れた。幾度かの樹林氣功の集いを通し、彼は「いのちひとつらなり」という私達の樹林氣功の念いの言霊を胸に発っていった。

 暫くして、彼は故郷白山麓にワンネス・スクールを立ち上げた。ワンネス=いのちひとつらなり。様々な状況の中で、様々に鬱屈した若者達に学びや、共に生きて行く事の大切さを伝える場が生まれた。

 その後、音信の途絶えた年月が過ぎた。私の海外での活動が一段落した頃、他の杜の仲間と共に、今は壮年になった彼と再会した。ワンネス・スクール主催の講演会講師を依頼された。彼の成し遂げてきたことを思えば、今更私が講話する事もないと思えたが、彼が産み育ててきた「人の杜」の風景を訪ねてみたくもあった。

 講演会の期日も迫った頃、彼から連絡があった。教育の分野での活動に中日新聞より贈られる「教育賞」に選ばれ、授賞式が講演会と同日という事になり、申し訳ないが講演会の開会時間を少し遅らせてもらえないかとの相談であった。そのような喜ばしい事なら、講演会は受賞記念講演会とし、むしろあなたが報告、講演を行ってはと勧めたが、むしろ授賞式より講演会を大切にしたいと、彼は譲らなかった。

 当日、講演会は開会を数時間ずらし、午前の表彰式後、彼は名古屋からとんぼ返りで金沢の講演会場に戻ってきた。その日の講演会は、予想を上回る参加者が、講演後の質疑応答まで熱心にご参加下さった。出会いの偶然と必然の不可思議を改めて思う一日であった。

 I prefer to finish my education at a different school.

Henry David Thoreau, "Life without Principle"

 「私は異なった学舎において私の教育を成就したい。」 ヘンリー・D・ソローの言葉である。「森の生活」の著者として知る人々は多いだろう。45年に満たないその生涯の中で、ソローは単なる森の隠者に止まらず、様々な職業を経験している。その数ある職業の中には教師もある。兄ジョンと経営した私設学校、コンコード・アカデミーがそれである。この学校の特徴は、通常の学科以外に森の散策、ボート漕ぎ、先住民の遺跡見学、町の商店訪問など様々な活動が含まれていた。

 「...学校でただ『川は山から流れ下る』と教えられても、それは想像上の知識でしかない。真の意味で学知を持つ者は、自らの繊細な身体感覚を通じて自然を知る。...」このソローの言葉は、私達が唱えてきた樹林氣功の「なまみの感性」と響き合う。また、ソローは云う。「私達が学ぶのは、直接的な交わりと共感によってである。」ここでソローは、Sympathy『共感』という表現を使っている。この語には、「思いやり」、「調和」、「共鳴」、「共振」、「交感」などの重層的な意味が含まれている。私達も、杜のまなざし塾で、いのちの本来の風景は、双方向の響き合い、森羅万象との交流、共鳴、共感と説いてきた。

 「人の杜」育ても、森林を育むのも30年、50年、3世代の大事業である。

 「財を真に営む者は公の心を持つ者なり。公の心を持つ者は財を真に活かす者なり。その財のもっとも真なるは人なり。真に財を営むは人育てなり。」という言葉がある。

 北陸、白山麓の地で、今、いのちひとつらなりの人の杜が育っている。

杜のまなざし (2)

 福井から山中温泉に抜ける道は、富士写ヶ岳の裾を巡って行く。深田久弥の日本百名山の出発点とも言える富士写ヶ岳の晩秋の森で、杜のまなざし塾を行った。地元からの参加と共に、遠くは熊本、そして三重、長野、兵庫からも杜のお仲間が集い、80代から幼児まで杜の氣との交流を楽しんだ。

 樹林氣功会観氣行改め、杜のまなざし塾も、その基本はたんとう功である。ふっと、森の中に立ち交じらせて頂く。『化樹の行』とも云われるが、「わたし」が立っているのではなく、杜のまなざしに包まれて、ここに、静かに、森のささやかな一部として居させて頂く。たんとう功は、その境地に入って行く一つの手立て、一つの作法である。手立てや作法はシンプルなものほどよい。そして、一度境地が拓けば、手立てに囚われる必要はない。

 氣功の念いには、要らざるものを脱ぎ捨てていく、行き着く先には、無一物の軽やかさ。ただ、すとんと、天地万物のただ中に、そのささやかな一点として息づかさせて頂いているいのちひとつらなりの風景がある。この簡にして、素なることを、往々にして、なかなか納得して頂けない。

 あなたの云っていることは、難し過ぎると言う者もあれば、いや、もっと奥義に至る技があるに違いない、出し惜しみをしないで、その技を、修練法を教えてもらいたい、と迫る者もいる。この様な功法が、気のパワーを強くする。この様な樹木と、或いはこの様なパワースポットで気功を行えば、気感が拓き、能力が高まり、健康になる等々、効能書きはかまびすしい。様々な功法が世に溢れ、その功法を学ぶ事が、いつの間にか目的化してしまい、気功の商業化に貢献する事になる。甚だ近視眼的な、本来の氣功の風景とは異質なものと云わざるを得ない。

 富士写ヶ岳の急な登りを過ぎた中腹のブナ林で、弾んだ呼吸を静め、各々が好みの場で、杜の一部となった。30名ほどの参加者の中には、約30年にわたり、樹林氣功を積み重ねて来た方々もあれば、つい最近始められた方々も居た。両親と共に参加した幼児も居た。

 氣の世界には、優劣は無い。生きとし生けるもの、在りとし在るものは氣を有し、響き合い、連なりあっている。ヒト科のヒトのみが、文明という技術革新の中、氣の感性を閉ざし、鈍らせてきた。

杜のまなざし (1)

 樹林氣功を提唱し、早三十年が経った。この間、「樹林氣功」はそれなりに社会に認知され、各地に拡がりを見た。しかし、その多くはともすれば森林浴や、アウトドア健康法の一つとしての理解であったり、大樹、古木からパワーをもらうといった類のものである。それなりに影響力のある気功評論家が、そのような森林気功を喧伝していることもあり、世の多くにはこうした樹林気功の捉え方が流布している。

 気功の世界の大半は、ヒトの我欲の世界。樹林氣功を称しながら、その実は、我にとってのご都合主義、我の健康、我がパワーアップが彼らの心を占めている。そこに在るのは、人間の利益から見た世界であり、そうした世界には、自らが杜のまなざしを受けて、ここにささやかに存在させられているという謙虚な認識は育ちようもない。いのちの風景としては、一方向に偏ったすこぶる健やかならざる風景である。

 歴史を振り返れば、産業革命以降、私達ヒトは、この我欲増大、ヒトのご都合主義を、それまでと比較にならぬ機械・技術・生産力を持って驀進してきた。その結果を、今日私達はまざまざと目の当たりにしている。にも関わらず、ヒトは慣性で、今までの理性や知性、技術力の幻想に無上の価値を置いた、価値観や行動をひたすら続けている。

 今日、理性や知性はAIに奪われ、技術力はそれを使う者の倫理観や判断力の及ばぬ領域に入り込み、それでもなおかつ技術的問題は技術によって解決できるという虚構の迷路を突き進み続けている。

 一歩立ち止まってみてはどうだろう。静かに辺りを見回し、諸々のいのちに包摂された自己を、大きな精妙な「いのちの網」を、その不可思議を見つめるひとときを持ってみてはいかがであろうか?

 自我意識の肥大化したヒトの視点からばかりではなく、諸々のいのちのまなざしを受け、いのちの網の中にある小さな存在であると共に、全てのいのちとつらなりあっているということをなまみに「観ずる」感性を育み、養うことが今日におけるヒトの課題ではないだろうか。ここに、杜のまなざし塾の問いかけがある。

白山水系観氣行

 私は若い頃より、何かに引き寄せられる様に、呼ばれる様に、様々な風景を訪ね、暫しそこに佇み、時を過ごした。今にして思えば、その殆どが今日ジオパークとされ、ジオサイトと呼ばれる地である。

 白山もその一つ。現在ジオパークと認定されている白山域、その水系。呼ばれる儘に訪れ、暫し日々を過ごした。約半世紀前、10代の終わりの頃であった。その白山水系を、秋の終わりに北陸の仲間達と、杜のまなざし塾の集いで再訪した。

 二十四節気七十二候では、霜降の末候、「楓蔦黄なり」と。因みに、古やまとことばでは、草木が黄や紅に染まることを「もみつ」と、その葉を「もみち」と呼んだ。「もみじ」の語源と云われている。

 白山水系の滝滝は、美事な紅葉に彩られていた。正に、「山粧う」。十一世紀、北宋の画家、郭凞の言葉である。更に、冬の静もった山を「山眠る」と。その粧いから眠りにつく寸前の一瞬に私達は立ち会えた。身の染まるような「もみつ」の風景の中、暫し杜のまなざしとの交流を楽しみ、その余韻を味わいながら下山した。

 ところで、白山水系の滝と紅葉の美事な風景に感動しながら、この風景、この森の成り立ちに幾人の方が思いを馳せただろうか。

 白山は、中生代白亜紀前期(約一億四千三百万年前~)に堆積した手取層群などの地層の上に火山の噴出物が載る非常に不安定な地質を成し、大規模地滑りの起こりやすい地帯である。こうした地質が、あの滝の多い景観を産み出し、森も造り出した。

 最近、「多様性」という言葉が日常の文脈の中でも使われるようになってきた。生物多様性、種の多様性のみならず、文化の多様性などとも使われている。しかし、まだ「ジオ多様性」という表現は余り認知されていない。様々な地質を構成する岩石、そのような地質によって造られる地形の多様性。その地質、地形を巡る水循環の多様性。それが、多様な森を生み育んでいる。私達も、そのジオ多様性によって支えられた生物多様性の中に生かされている。

 あの美事な白山水系の紅葉は、想像を遥かに超えた時の集積のジオ多様性に始まる様々な多様性の連鎖・循環によって成り立ち、現前している。

 白山を発った翌日、今年の暦では十三夜に当たった。西に向かい、その夜は島根県隠岐島前のカルデラの外輪山に立ち、十三夜の月光に包まれた。