樹遷のエッセイ

杜のまなざし(14)

 始雪・終雪

 今年、2018年の北陸養生塾は、一月の大雪の中始まった。

真っ白に降り籠められた、その翌朝は青空の下、銀世界が広がっていた。

12月、冬至間近の2018年締めくくりの養生塾も、雪にいろどられた。

 わずか7人で始まった北陸養生塾も、回を重ねる毎に各地から様々な方々のご参加を頂いた。遠くは北海道、屋久島からも馳せ参じて下さった。

七人から始まったものが、今回塾の食卓を25人が囲んでいた。年齢層も様々小学生から70代まで。豊かな氣の大家族が、和気藹々と食卓を共にした。

 この一年、第一回からの参塾者は、一人も欠けることなく歳納めの今回まで毎回ご参加下さった。こうした方々、そして準備から、塾の進行様々な裏方の作業を厭うことなく、塾の実現に努めて下さった塾頭の樹伯さん、養生塾にご参加頂いた全ての方々のお陰で北陸の『杜のまなびや』はこの一年間を豊かな氣縁の実りとともに無事終える事ができた。

 北陸の『杜のまなびや』は、新たな年新たな氣縁を楽しみに、一期一会の養生塾を一つ一つ成就して参ります。養生塾は、参塾者皆様によって産み、育まれる氣縁の場です。多くの方々の参塾お待ちしております。

 2019年は、1月と9月を除き、ほぼ毎月杜のまなびやは開催されます。

参塾ご希望の方は、下記連絡先にご連絡下さい。

皆様とお会いできる日を楽しみにしております。

良いお年を。                        樹遷 記

連絡先:090-2039-4390(担当;樹伯)

尚、杜のまなびやの風景は、以下のホームページでご覧頂けます。

 ホームページ名:「養生塾北陸の集い」


杜のまなざし(13)

背く子・背かれる親

  雑草という草はあらず

 「雑草という草はあらずといひたまいし

         先の帝をわが偲ぶなり」

常陸宮妃華子様のお歌である。

 昭和天皇のお人柄を偲ばせるエピソードだが、那須の御用邸で夏を過ごされ、吹上御所に戻って来られるというので、御所建物周辺の草をきれいに刈っておいたところ、帰ってこられた昭和天皇「どうして草を刈ったのかね」とのお尋ね、「雑草が茂って参りましたので」と応えた侍従に、「雑草ということはない」「どんな植物でも、皆名前があってそれぞれ自分の好きな場所で生を営んでいる。人間の一方的な考え方でこれを雑草として決めつけてしまうのはいけない。」と諭されたということである。

 同じ様な話が、植物分類学の泰斗牧野富太郎にもあるが、このエピソードは、晩年の昭和天皇を彷彿とさせるものである。

 触れもせず、嗅ぎもせず、愛でもせず、名も知らず、先祖たちがその植物とどう関わり合ってきたか、その植物にどんな風に「お世話」になってきたか、知らぬ存在は、身の周りにあっても、見向きもせず、素通りしてしまい、ひっくるめて「雑草」としてしまう。

 名前を知ると、その草花がある風景は一気に親しみを増し、時にはこんな所にもいてくれたね、と懐かしささえ覚える。ましてや、今でこそ人々の生活とは縁遠くなっているものも、かつてはご先祖たちの生活の中で大切な役割を果たし、恵みをもたらして下さっていた事などを識ると、ひとしお愛おしく、有難く思えてくる。

 植物の存在無ければ、私たち動物の生は成り立たない。所が、それほどの恩を受けながら、私たちはともすれば「雑草」と一括りにして切り捨ててしまっている。

 植物の知性について研究をしているステファノ・マンクーゾが、この人間の植物に対する忘恩について面白い仮説を唱えている。少し長くなるが引用してみよう。

 「人間と植物は、大昔から絶対的な依存関係にある。親子の関係に似ているかもしれない。子どもが成長すると、特に思春期には親に頼ることをまったく拒否する時期がくる。これは、親から自由になって自立心を育てるために必要な段階で、のちに本当の自立を手に入れるための下準備でもある。人間と植物のあいだにも、これと同じようなメカニズムがはたらいているのではなかろうか?もちろん細かな点は親子関係と異なるが、それでもこの考えを完全に否定することはできないだろう。ほかの人に依存するのは、だれだっていやなものだ。依存は、弱くて傷つきやすい立場のときに起こる。たいていは、自分がそんな立場にあるなんて思いたくはない。

 依存する相手を憎むのは、依存関係のせいで完全な自由を感じられないからだ。ようするに、私たちは植物に依存していながら、その事実をできるかぎり忘れようとしている。それは、自分たちの弱さをまざまざと思い知らされるのがいやだからではないだろうか。」

 マンクーゾの仮説は、人の植物に対する「心理的ブロック」の根本にあるものを仮説ながら明らかにしてくれる。と同時に、最近の社会現象に思い至るきっかけをも与えてくれる。

 最近、私の身の周りも含め、若者たちの失踪や、大学を休学、退学し親からの支援を拒否、職について親とのコミュニケーションをも取らなくなるケースをしばしば見聞きする。

 そうした若者たちの行動の根底にあるのは、マンクーゾの指摘していることなのではないだろうか。背く子も、背かれる親もこのマンクーゾの仮説の説く心理的ブロックに気づいていないことが、この社会現象を理解しにくく、また子も親も互いにコミュニケーションを取り戻す道筋を見えなくしてしまっている原因の様に思える。

 

 自主自立は、生きて行く基本には違いない。しかし、真の自立は、他の諸々のいのちとの手つなぎによってはじめて成り立つことを忘れてはならない。若者たちよ、自主自立を急ぐあまり、他の諸々のいのちによってこのいのちが今、ここに成り立っている事を忘れないで下さい。もっとも身近ないのちがささえあってこそいのちは成り立つのだから。いのちはひとつらなり、それを忘れた自立は他のいのちの切り捨てに向かう。

 雑草という草はあらず、もう一度周りを見回して、名を呼びかけ、対話を試みて。まわりのいのちの思いや、どのように生きて来たか、その様な事を知るにつれ、今まで気づかなかった、どれほどその他者に支えられ、恩を被ってきたかに目が開かれるかも知れない。

杜のまなざし(12)

 「樹恩」

  樹恩と言う言葉を、お教え下さったのは柏樹社の中山社長だった。樹医の山野忠彦翁も樹恩という表現をしておられた。

 1990年柏樹社より出した『愚者の智恵』あとがきを少し長くなるが、引用させて頂く。

 「人類中心的価値観は、人類以外の存在がコミュニケーション能力を持ち、ましてや判断力を持っているということを、永い間、容認することが出来なかった。人類の持つこうした認識の枠組みの狭さがどれほど多くの事実に対して私たち自身を盲目にしてしまっていることだろう。

 みどりがなければ、私たちはこの惑星上に今あるような形では存在しなかっただろう。地球上にみどりが発生して以来の、長い長い歴史の中で我々は育まれてきた。その間、意識する、しないにかかわらず、みどりと交流しながら、私たちは人類というものにまで至ったのである。いまや、私たちは、このみどりと交信し、理解し合い、癒し合うことができるかどうか問われている。」

 30年近く前の文章である。

この本発刊当時、「ロマンですね」と鼻先であしらわれることが多かった。

 ステファノ・マンクーゾという研究者がいる。

イタリア、フィレンツェ大学農学部教授、国際植物ニューロバイオロジー研究所の所長でもある。この植物の『知性』研究の第一人者の研究成果は、これまでの人間中心主義の生命観、価値観を大きく転換するものである。

脳も無い植物に知性がある!?と大半の方は反応されることだろう。

 「知性」という言葉を、『問題を解決する能力』と定義できるとしたら、植物は知性をもっているだけではなく、その知性は輝かしく素晴らしいものであることをマンクーゾ氏は、その研究成果を持って証明している。

こうした植物の知性について定量データに基づいて初めて科学的に示したのは、チャールズ・ダーウィンである。

 植物の知性に関するマンクーゾ氏の成果についてお知りになりたい方は、

氏の著書“Verde Brillante”の翻訳「植物は<知性>をもっている」をお読みください。

 ここでは、マンクーゾ氏も著書で触れている別の事実を述べておきたい。

地球上のバイオマス(個体の総数ではなく、生物の総重量)のうち、多細胞生物の99.7%は、人間ではなく植物が占めている。人間と、全ての動物を合わせてもわずか0.3%に過ぎない。

 マンクーゾ氏も指摘している。「われわれこそが地球の支配者であり、地球を自在に操る力をもち、ほかの種よりも大きな権利をもっている」という人間の思い上がった考えと、この事実の矛盾を。

 「植物は、私たち人間がいなくても、なんの問題もなく生きることができるのに、私たちは植物なしではたちまち絶滅してしまう。」というこの植物学者のつぶやきも、それを真に理解しているのは人間たちではなく、植物たちなのかも知れない。

 私たちは、植物に依存して生きている。樹恩、草恩、もろもろの緑恩に深く頭を下げる他ない。 樹遷

「杜のまなざし」(11)

「養成塾の風景」④

 第4回養成塾は、再び初回に合宿した金沢の郊外、今回は六月初夏の候、前回と打って変わって、豊かな緑がみんなを迎え入れてくれました。

 『氣の家族』ということを、樹遷さんはよくおっしゃるのです。「これ迄は、血縁、地縁の中で人々は生きてきたが、これからは氣縁というものが大切になってくる」と30年前、最初にお会いした頃から語っておられた。

氣縁によって生み出される場、その居場所が人生を豊かにするんですというお話。正に、それを感じた養成塾でした。参加者みんなが来ると異口同音に、ただいまー!で始まるんです。

 自他の区別がなく、皆昔から兄弟だったような。オープンな、互いにいたわり、いつくしみ合う関係が、共有する時間の隅々に自然と見えるのです。

家族や地域、職場でもなかなかこんな関係は見られません。

 「これから日本は、多くの人々が、孤立化していく。そんな時代の流れ、氣を縁として、絆を育てていける場を、今作る必要が目前にあります。」と、養成塾の冒頭に樹遷さんが語られていたのですが、その意味がこうして見えてきた気がしました。

 『下医は病を治す、中医は人を治す、上医は知らずして時代を治す。』その様な言葉が、東洋医学の伝承にはありますが、正にこの養成塾は、20年後の孤立化の深化した日本社会を癒し、治していく、最初で、そして本質的なムーブメントになるなと、そのために樹遷さん、今、この養成塾を始められたんだなと、お世話役をしていてやっと見えてきました。

 初回からの連続参加の皆さん、人はこんなに短期間で、こうも変わるのかと、ある意味驚きの連続。表情が、立ち居振る舞いが、言動が。氣が変わってきたということなのでしょうが、皆本当に穏やかで、呼吸も深く、そして何より周りへのまなざしがとても優しくなっているのです。

 養成塾は、いのちを養うということ、先ずは自分のいのちを養う=すこやか、という風に考えがちです。私も当初はそんな理解だった様に思います。けれども、季節毎の養成塾開催を重ねる、その都度、樹遷さんから季節の変化の味わいや、自然を大事にしてきた日本人の文化の深さ、そして諸々のいのちと交流することの楽しさなどを、知識ではなく、生身で教わり、体感しているうちに、私たち一人一人の、自然と共に暮らしてきた先祖からの眠っていた「遺伝子」が目覚めたのでしょうか。「自然と共にある我がいのちが愛おしい」、そんな言葉を参加者から聞くようになりました。

 この回は、最終日に参塾者以外の、一日参加の方々も含め、杜のまなざし塾が組まれて医王山の杜に入らせて頂きました。その杜で皆さんが佇む風景は、まさに、自然と共にあるいのちの豊かさ。『ひとつらなりのいのち』という言葉を体感し、そこにあるすこやかさを味わったひと時だった様に思います。

 今回は、塾を支える裏方として、男女の若者が初参加してくれました。

彼らの働き、この間の成長ぶりにも深く感動し、喜びで一杯になりました。その彼らの姿を見ながら、参加者の皆さんが、「いのちを養うとは、自分1人が元気になることではなく、人々のいのちが豊かにはぐくまれること、皆が穏やかに安らげるようになる生き方、更に付け加えるなら、人のみならず、自然界全てのいのち達とも豊かに生きあっていけるような生き方を身につけること、そのような「まなざし」を持てるようになること。それが、養生(ようせい)の思想、念い、哲学ではないだろうかと。

 『いのちは常に双方向(でもあり総方向でもある)。』樹遷さんは常々こう述べられています。養成塾も、樹遷さんと参塾者の一方通行の関係ではなく、参塾者間、参塾者から樹遷さんへと、こうして思いや、知恵のやり取り、紡ぎあいのある場でもあるのです。「一番学ばせて頂いているのは私だろう」と樹遷さんはおっしゃいます。

 この文章を書くにあたり、改めて樹遷さんの書かれた「樹遷の養成塾」という文章を読み返して見ると、そこに既に書かれていました。

『宇宙自然、もろもろのいのち、自然の摂理、いのちひとつらなりを認識し、深めていくなまみの哲学、その体現。』と。

当初は、この文章の意味を、私は頭でしか理解していなかったのですが、一連の養成塾にお世話役として、参塾者として参加してきた今、この文章の意味、養成塾の目指すところがはっきり見えてきた気がしています。

 全てのいのち達と、豊かに、そしてすこやかに癒しあっていく喜びと安心、信頼の生き方、東洋的に言えば、『道』でしょうか。

養生(ようせい)の道、それは自然の一部としての自分を体感、認識し、謙虚に微笑み一杯に人生を生きていくこと。今、この間の体験を通して、私の魂に湧いてきた言葉です。

 今後、養生塾には、生育老病死、様々ないのちの風景にある方々が参加されることと思います。それぞれが今を大切に、共に癒しあって、すこやかに生きあっていける、氣縁の居場所。

自然に寄り添い、全てのいのちを敬い、いのちの波に逆らわず、老い、病、死さえも尊く受け入れていける場。

いのちひとつらなりという、いのちの本来が当たり前のこととして語られ、その様に暮らしていく生き方を深められる場。

 この養生塾が、これからの日本、否世界において必要とされ、大事なものと学ぶ人々が増えてくることを確信しています。その始まりが、私が生まれ育った、この石川から始まることに喜びを感じています。

終わりに、こうしたご縁を頂いた樹遷さんに改めて心からの感謝をお伝えし筆を置きます。

 お読み頂いた方に、少しでも養生塾の風景が届けられたら、有難く思います。

樹伯 記

「杜のまなざし」(10)

 「養生塾の風景」③

第3回養生塾は、前回とは趣の異なる街中の公共施設での開催。

『氣食』がテーマに。食息動想を整える事は、すこやかないのち調えの基本。

 養生塾では、季節毎のいのちの調整、「四季調整」を樹遷さんと過ごす時の流れの中で学んで行きます。中でも、食による整えは、季節の変化、自然の恵みに感謝しつつ、東洋医学の五味五性のバランスを図り、日々の食材で氣をすこやかに巡らせ、季節に寄り添ったいのちつくりの知恵の粋を集めたものです。

 養生塾の毎回の食事は、樹遷さんからメニューのヒントや、アドバイスを頂きながら、この氣食を参加者みんなで工夫しながら一緒に作ります。

今回は、改めてこの氣食の考え方、基礎理論を講義して頂き、参加者皆、成程と各々の日々を思い返して、東洋の知恵に感じ入りました。ただの理論知識ではなく、この氣食も含め、お伝え頂く息、動、想、わずか2日間の合宿で、からだに心に毎回変化があるのが、日々活かせる知恵として体にすとんと納得の行く、体得が凄いです。『氣』って、本当に不思議とは、参加者のご感想。

 養生塾は、病気治しが主眼ではありませんが、この度は癌をお持ちの方々もご参加頂きました。

様々な体験を経てこられた樹遷さんの語られる言葉の中に、「すこやかに生まれ、すこやかに育ち、すこやかに病み、すこやかに老い、すこやかに死す」があります。最初の二つは、誰しも思う事ですが、老病死にすこやかにということは思い至りません。しかし、老病死もいのちの波。波だからその揺らぎの中にあるいのちを愛おしく、静かに受け止める。その中にすこやかないのちの風景はある。

こうした樹遷さんのお話は参加者の心に深く響いたようです。

 この会は繰り返しになりますが、治病でも、気功の技を身に着けることでもありません。気功や、氣食はあくまでも一つの手立て。その様な手立てを借りながら、すこやかに、他のいのちと共に生きていける知恵を、自然から学ばせて頂こうという謙虚な道なのだということ、参塾を通して思うところです。(続く)

 樹伯 記

*養生塾は、随時どの会からも参加可能です。また、宿泊参加が難しい方は、日帰り参加も可能です。

尚、今年は、10月5日~7日第5回養生塾、7日午後いやしあいの会、8日杜のまなざし塾を行いますが、12月にも第6回が予定されています。

 また、来年は、北陸養生塾は、年6回以上開催を予定しています。

詳細は、Tel:090-2039-4390 担当 樹伯までお問い合わせください。

「杜のまなざし」(9)

「養生塾の風景」②

 養生塾第2回は、年明けの1月、1泊2日の塾であった。

石川で何十年振りという大雪の中、キャンセル続出。樹遷さんも福岡からの飛行機が着陸できず、雲間からちらりと機影はみえたものの小松上空を旋回し、福岡に戻ってしまった。翌日、列車を乗り継いで何とか金沢にやって来られた。そんなハプニングだらけの中での開催だった。

しかし、終わってみれば、大成功。塾の会場は、公共の研修所だったが、大雪のお陰で私達のグループのみ、真っ白な雪化粧の中、本当に皆の心が一つになる二日間だった。

2日目の朝、太陽が白銀に差し込み、養生塾を天が祝福して下さっているよ、とつぶやかれた樹遷さんのお顔が忘れられません。

養生塾は、毎回何をするというプログラムがありません。参加者の顔ぶれや、当日の天候、皆の氣を観て、臨機に樹遷さんが進めて下さいます。

日々の暮らしの中で養生の智恵を育んでいって頂きたいという樹遷さん。一緒に生活を共にする事で、樹遷さんの生き方、息の仕方、ものの観方、接し方などなどを学べるのが魅力なのです。

この時の大雪も、主催するものとして慌てふためいていたのですが、樹遷さんの少人数で一人一人を大切にする会にしなさいと天が云って下さっているんだねと語って下さる言葉、そして降り積もる雪を穏やかに見つめる姿、そこからも色々なことが学べるのです。

 東洋では、昔から学びたい師匠を訪ね、生活を共にする事で、知識だけではなく、人柄や生き方といった人間とその知恵を学び取っていくことが大切にされてきました。この養生塾は、ある意味、養生の生き方、智恵を体現されている樹遷さんというお師匠さんと共に時間を過ごすことで、知識では身につかない、真の養生の智恵を身につけていく道場のようなものではないだろうか、この合宿を通して一番に思ったことでした。

 昔からのやまと言葉はとても大切ということで、初日の夜には、小正月ということで、百人一首のかるた取りをしたのですが、あれから参加者の皆さん、日本の歴史や、昔の人の生き方に関心を持ったと、古典を読み始める方も。

自然と共に生きていた昔の日本人に関心を持つこと、これも養生の道に通じる窓口です。

 事始めの合宿。雪に閉ざされていた事もあり、本当に凝縮した、そして皆の心が一つになった素晴らしいスタートとなりました。この時の参加者たちが、その後も全員フル参加なのも、きっとこの始まりの会で、何か本質的なものを感じたからではないでしょうか。参加者が書いて下さった感想文には、「言葉にはならないが、今回とても大切なことを」、そして「こんな穏やかな心をもてたこと」、「昔からみんなお友達みたいな」と、養生塾の基本の風景を美事に表現して下さっていました。

 養生塾では、樹遷さんの体現されている養生の智恵を、共に生活する中で、自ずから体感できます。しかし、それは何一つ強制されるものでは有りません。

何を学び、何を体解するかは、一人一人の自由に委ねられています、また、参塾者一人一人の提案や、生き積み重ねて来られた智恵も受け止められ、参加者皆の智恵として織り成されていきます。学びは、双方向であり、真の学びは自由自律にいたるからです。(続く)  樹伯 記

「杜のまなざし」(8)

 2018秋

丁度一年前の秋、北陸で養生塾の言挙げをした。

以来、回を重ねこの10月には、第5回の養生塾が行われる。北陸養生塾の塾頭樹伯さんから「養生塾の風景」という文章が送られてきた。私のエッセイではないが、杜の木魂の響きとして、ご本人の了解を得て、文章に多少手を入れさせて頂き、ここに4回に分けて、掲載させて頂く。

 「養生塾の風景」①

 養生(ようせい)の念いを伝えたく思う。樹遷さんから提案された。

養生(ようじょう)=予防医学!? そんな考えが頭をよぎった。そんな私を観てか、樹遷さんいわく、養生(ようせい)とは、病にならないためという消極的健康法ではなく、積極的にいのちを活かし、また自分のいのちだけではなく、森羅万象、自然界のすべてのいのちが豊かに育まれていく智恵なんですと。

 面白そう! 具体的にどんな風になるのかは想像できなかったが、今までの樹遷さんとのお付き合いの中で、何かこれが集大成のような気がして、養生の風景が見てみたい! 石川から始めましょうと、2017年の秋養生塾がスタートした。

 事始め、第1回目は、秋晴れの金沢市内の公園にて。

養生の念い、人と人が癒しあえるということ、そして自然ともひとつながりでいのちはあるというお話を交えつつ、生身で味わいましょうと、氣の交流などを行った。残念ながら私は所用でその会には参加できず、後で参加者からの感想やビデオでしか様子が窺えなかったのだが、「なんかほのぼのできた」、「体が軽くなった」、「人とこんな風に交流できるんだ」などなど。有難い感想ばかり。

実際、ビデオで見る参加者の表情が本当に穏やかで、幸せそうなのだった。

何か、これからの生き方に大切なものを学んだ気がするという参加者の感想が、次回開催に向けての自分の力となった。 (続く)   樹伯 記

※10月の北陸養生塾開催日程

  10月5日(金)~7日(日)

上記日程前後に、

10月4日(木)18:30より19:30しずく塾

10月7日(日)夕方より癒しあいの会

10月8日(祝)杜のまなざし塾

を、開催します。詳細は下記へ。

090-2039-4390 担当:樹伯

「杜のまなざし」(7)

 「悼惜」

 今春、立て続けに友人、知己を見送った。

90歳の長寿を全うされた、被災地で知り合った「友人」。一方で、10代のこれからという希望に満ちたいのちを事故で失った。その死の数日前に、電話でこれからの希望や、計画、夢を楽しそうに語ってくれた矢先の不慮の死であった。また、東日本大震災の被災地で、本人自身被災者でありながら、私達ボランティアと共に被災地支援の地域リーダーとして一緒に汗を流した40代の一家の大黒柱、コミュニティの柱でもあった友人、何の言葉も遺さず逝った。彼のみならず、50代の友人二人もそれぞれ自死を選んだ。

 私自身は、様々な現場で死を看取ってきた。

荘厳な死もあった。悲惨な死にも出会った。どんなに死に逝く人を送る体験を重ねても、他者の死に慣れる事はない。

 現代では、「服喪」と言う慣習は忙しすぎる日々の中で形式化し、忘れ去られがちとなっている。礼の根本として、「服喪」を重んじた孔子は三年間の服喪の儀礼を大切に説いた。一方では、形式だけに囚われた服喪のあり方は戒めている。今日、3年間の服喪は余りにも非現実的かも知れない。しかし、喪に服するとは、心の中で死者と親しく対話し、逝った者の不在を悼惜(悲しみ、惜しむ)する時間とするならば、こうした心の時間は大切にしたいものである。

 この春に逝った友人たちの初盆を祀った。間も無く、秋の彼岸。この時間の流れ、逝った人々との対話を静かに続けることにし、一切の講演、文章の発表を控えた。このエッセイ「杜のまなざし」もその様な思いで暫く発表を差し控えた。一方、この間、大阪北部地震、西日本豪雨被害、そして北海道胆振地方の地震と災害が続いた。その現場の支援活動だけは、死者の赦しを得て、現在も北海道の現場に身を置いている。

 ともすれば、「科学的思考」に馴らされた私達は、死は物質の消滅と思い込まされてはいまいか?

 「死は見ることの完成形だ」という言葉がある。人生の一部を共にした方々との悼惜の対話は、嘆き悲しみに止まることなく、その対話を通していのちの風景の深みを見る大切な時間であろう。服喪をないがしろにしてはならない由縁ではなかろうか。

 養生(ようせい)の思想は、いのちの風景としての死も愛おしく、大切に包摂していく。   樹遷

「杜のまなざし」(6)

~色の氣~(1)

 色の氣と言っても、色恋沙汰の話ではない。正に、色の持つ氣の話である。江戸後期から染め屋を営む「染司(そめのつかさ)よしおか」、古代色に関心をお持ちの方ならご存知と思うが、その6代目にあたる吉岡更紗さんの話を聞く機会を得た。先代の吉岡幸雄さんは同学で、その古代色探求の姿には常に注目してきた。様々な古代色の中でも、就中正倉院御物の紫染めの探求は、吉岡親子代々のテーマである。西洋では、紫染めにはアクキガイ科の貝の分泌腺(パープル腺)から採ったものを使った。貝紫である。日本では紫草の根を染料として利用してきた。

 漢方に詳しい方なら馴染み深い「紫雲膏(しうんこう)」という塗り薬の原料として使われていることをご存知だろう。紫雲膏、潤肌膏とも云う。局所の栄養状態が悪く、乾燥気味で、発赤、腫脹、浸出液が少なく、化膿していない肌トラブルに効能がある。紫根は、染料にも使われるが、解熱、解毒、殺菌、肉芽形成促進、抗腫瘍などの作用がある。

 かつては、日本全国に見られた紫草、万葉集の額田王の「あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る」を思い出される方も多いだろう。この紫野とは、紫の染料をとる薬草の群生する野原の事である。今では、紫草の産地も稀少となり、日本国内では絶滅寸前であるという。現在使われているものは、中国からの輸入もので品質にばらつきがあり、思うような染め上がりにならず苦心したと更紗さんは語った。

 ここに、志土知(しとち)という地名が登場する。かつては「紫土知」の字も使われたという。大分の山中、かつての阿蘇山や久住山の大噴火で噴出した火砕流に覆われた台地上にある。この地は、その土壌の特性により古代より紫草の採集地、栽培地として知られていたらしい。先の額田王の紫野もそうだが、紫野は紫草を栽培、管理する謂わば国営農場であり、野守によって管理されていた。『豊後国正税帳』にもこの地域を指す直入郡に薬草園があったと記載されており、収穫には太宰府使が視察に訪れたという。近年、この地で有志が紫草の栽培に着手した。その紫草によって染められた布を見た。正に、「紫の匂えるごとく」深い光を帯びていた。

 「服薬」という言葉がある。今日一般的には、薬を服用することと思われている。本来は、薬草で染めた衣をまとう意であろう。紫草の他、藍、紅花、黄蘗、クチナシ、一位(イチイ)と上げれば、全て薬としての効能を持つ。古来四季の移ろいの豊かな日本では、四季の自然の彩りを衣に染め、身にまとい、四季のいのちの整えとしてきた。

 吉岡更紗さんの話を聞きながら、身近な自然の四季の彩りの鮮やかな移ろいを生活景観から失った現代、私達はどのような色の氣による四季調身が可能なのだろうか、という思いに囚われた。

杜のまなざし (5)

 山守りびとたち

 かつて、山は賑わっていた。とはいえ、現代の都会の様な賑わい、騒々しさではない。遙かな時代の話でもない。第2次大戦前、まだ百年も経っていない頃迄の事である。その頃まで、山には山を生活の場とする木地師、漆採集人、炭焼き、猟師、煮炊きに使う柴を採る里人、更には山を修行の場とする修験者、今はおおかた忘れられた山越えの道を辿る人々、などなどが行き交い、時にはその人々が各地への文化の伝播者となった。そのかつての広葉樹に覆われた山には、それらの人々のたつきを支える豊かさがあり、様々な動物たちも豊かな森に支えられていた。

 1947年、私の生まれた年である。この年設立された林野庁は、広葉樹より利益あるものとして、自然林を伐採して用材杉を植林する計画を、戦後の経済成長に資するものとして打ち出した。ここに、日本在住の長いアレックス・カーの文章を載せよう。

 「....日本の景観はがらりと変わってしまった。今ではどこへ行っても、日本特有の自然林の明るく繊細な緑は少なく、まばらに残る自然林も軍隊式に林立した杉木立に侵略されようとしている。紅葉、桜、秋草、竹林、何千年にもわたって伝統芸術や文学の主題であり続けた自然、その無傷な姿を眺めることは、もうほとんど不可能になっている。文化的な損失は別にしても、杉の単純林は多くの野生動物を死滅させている。成長の早い用材林の落とす暗い影は下生えを枯死させ、鳥や鹿や兎や狸の生息環境を破壊する。....中略....地被直物を奪われた山の保水能力は低下し、山を流れ下る川は干上がっている。杉を植林した土地は浸食が激しく、それが崖崩れや川への土砂の流入につながり....」アレックス・カー著「犬と鬼ー知られざる日本の肖像」講談社刊

 先年、福岡県、大分県日田地域を襲った豪雨、山崩れの被災地に直後に入り、被災者の支援活動の傍ら、つぶさに山崩れの現場を調べた。あれは、林野庁が「推進」した人災である。

 西欧の森は、おおむね平地にある。日本は、森林を「山」と称するように、多くの森はこの山がちの国では山岳部に広がっている。縄文期には平地に森が広がっていたのだろうが、その少ない平野の森も農耕文化の伝播と共に、切り開かれ農地へと転換し、わずかに残った平野部の森は鎮守の森となっていった。

 日本は世界でも希に見るジオ多様性の豊かな地質である。一度日本の地質図をご覧になって頂きたい。様々な年代の、様々な地層がモザイク様をなしている。他の大陸の地質図と見比べて頂けば、一目瞭然にその違いがわかる。ヨーロッパ大陸の地質は日本と比べれば単純である。ジオ多様性の豊かな土地には、豊かな自然の多様性がある。ジオ多様性が単純であれば、そこに育まれる森も単純な様相となる。

 ジオ多様性故に、日本のかっての森は豊かな様相を示していた。また、豊かな植生は、多様な地質に応じて発達した。そのジオ多様性を無視した、ヨーロッパ型林学による単層林の植林は、根本を無視した矛盾を今露呈している。福岡、大分で発生した土石流は、花崗岩風化土、まさつちの土壌に植えられた用材林の崩壊に他ならない。

 戦後の経済復興の名の下に行われたのは、明治以来の富国強兵の強迫観念の亡霊のなせるわざではないだろうか。これまで、森林とジオ多様性の関連を殆ど無視してきた植林事業にも多大な疑問を感ぜざるをえない。

 世の中には、こうした林野庁の推進してきた植林政策に疑問を持ち、様々な自然林の復活、豊かな自然林の育んだ森の文化の復興に取り組んでおられる方々がいる。杜のまなざし塾のお仲間にも、三重の美杉の地で放置された山の間伐や、自然林への再植林、森の恵みを生かす活動を、20数年にわたり、多くのボランティアとともに実践してこられた方がいる。また、最近お会いした長野で林業にいそしむ傍ら、森の文化の復活を食や、その他の面から試みていらっしゃるかたもある。お二人とも女性である。森を壊した男性原理にたいし、豊かな森の復活に女性原理が働き始めている証しだろうか。

 本来、山に携わる人々は、「山の守りびと」であった。大きな生命循環の中で、山は清浄な大気、水をもたらしてきた。山を壊すという事は、生命循環を損ない、ひいては私達の生命も損なわれる事でもある。

 森林学者の四手井綱英氏の言葉を最後に載せよう。

 「植林政策は失敗だった。経済の高度成長時代に、林野庁は急成長の雰囲気に引きずられ、産業面にばかり気をとられた。....森林には産業以外の役割もあるという事実を完全に無視したのだ。木は経済的な利潤のためだけに存在するのではない。」

 次世代に向けて、我々は「山の守りびと」であったと語り継げるだろうか。

杜のまなざし (4)

 いやしあいの風景

私達が唱えてきた樹林氣功では、いやしあいの念いを根幹にしてきた。最近では癒しという表現がちまたに溢れている感があるが、30年ほど前に”みどりといやしのフォーラム”を企画した時には、癒しという表現を見て、これは新興宗教か何かの集まりですか、と怪訝な顔をされたものである。また、癒しというと、ヒトが癒されることのみ語られるのは今日でも変わりない。

 私達が、いやしあいの念いを根幹にしているのは、それがいのちの風景の本来のすこやかなありようだからである。すべてのいのちは本来、双方向、総方向である。ところが、教育の分野でも、医療の分野でも教える者、教えられる者、治療する者、治療される者の関係は一方向であり、それを双方とも疑いもしない。そんな関係性がいのちの風景として如何に偏ったすこやかでないものか問い直しもしない。更に、いやしあうのはヒトとヒトだけではなく、ヒトともろもろのいのちとの間にも有ることを我々人間は忘れがちである。

 そのいやしあいのなまみの感性を、一方では人と人の氣の交流で、他方では森の中に立ち交じらせて頂き、杜のまなざしに包まれながら拓いていくことを私達は願っている。そんな子供じみた幻想ですよ、と鼻先でせせら笑う方々もある。その方々は、現代社会の全ての社会機構が、必然の虚構の上に成り立ち、その虚構の危うい事実の中で我々はこの世を生きているという事に気づかないか、うすうす判っていても目をつぶっているかである。森羅万象という大きな精妙ないのちの網の中にささやかな一点として存在させて頂いていると云うことを、まるで非科学的な捉え方としてしか思っていない。

 真に科学的という事は、単に定量的に、定性的に現象を捉え、解釈するだけではなく、むしろ大きないのちの網を直感的に、なまみ感で感じとることにあるのではないだろうか?

 さて、ヒトとヒトのいやしあいに話を戻そう。アメリカで或る時スピーチを求められた。以下、その折のスピーチの一部を、後にエッセイとして書いたものである。原文のままで少し長いが、読んでみて頂きたい。

 ”Hug"

 For ordinary Japanese people, it is not a habitual act to hug or to be hugged by someone. When I visited France in my youth, I was shocked by their hugging and kissing so often.

Years later, I was in Calcutta(now Kolkata) to work as a volunteer in one branch of activities organized by Mother Teresa. My work was to seek dying people in the street of Calcutta every early morning, and take them to the place later called "House of Dying". Almost of them were past cure. They were dying. What we could do was to clean up their bodies sometimes covered with pus and leeches. After cleaning up, we put on them clean and comfortable clothes.

One day, I met an old man dying. Nuns were so busy because that morning we had many dying people. After praying for the man, nuns left him alone. I saw the furrows of grief in his face. The old man was in deep solitude. Unintentionally, I hugged him and stayed with him until he passed away. Just before his last breath, he opened his eyes and smiled so beautifully. Since then it has become my way to bless "the departure" of dying person.

After India, I went to several places in the world where I could help the victimes of war, natural hazard and social inequality. In each case, I met many orphans who had very deep hurt not only of their body but also of their soul. They were dying in their mind. For almost of them, a psychological approach by doctors was not enough effcient. One night I kept hugging the whole night a little boy who had been screaming nonstop even one minute. The day after, he stopped crying. I continued to hug him as possible as I could. First, he was just as a cold stone. A few days later, he became warm and soft. One day he laughed. It was first time that we heard his voice.

As a doctor of oriental traditional medicine, I often receive patients of serious illness or their family come to ask my advice. My advice is always finished with the following phrase. "First of all, please hug each other as often as possible." Last year, a family of a patient who had cancer of pancreas in terminal care came to ask me if they could cut a prescription of painkiller and give him ordinary life for his last moment. The patient was a doctor, a specialist of cancer. I went to see him and adviced him, "Please hug with your family." He told me, "Doctor, I never hugged my son, my daughter..." According to the family, in his last ten days, he rarely had pain without painkiller and enjoyed those days to hug each member of family as often as possible.

Nowadays, many of doctors can not even touch their patients. From many researches, healing touch give us beneficial effects, such as increasing the power of resistance to disease, decreasing pain, being emotionally stable and so on. Each time when I give a lecture for medical staffs, I tell them, "Hug! Hug your patients! Hug your colleague! Hug your family! You will find not only your patients but also yourself healed."

大変拙い英文であるが、いやしあいの念いはお届けできたであろうか。

杜のまなざし (3)

 早、20有余年になる。ある日、一人の青年が訪ねて来た。志は有るが、進むべき道を見いだせぬ心の揺らぎがそのまなざしに感じ取れた。幾度かの樹林氣功の集いを通し、彼は「いのちひとつらなり」という私達の樹林氣功の念いの言霊を胸に発っていった。

 暫くして、彼は故郷白山麓にワンネス・スクールを立ち上げた。ワンネス=いのちひとつらなり。様々な状況の中で、様々に鬱屈した若者達に学びや、共に生きて行く事の大切さを伝える場が生まれた。

 その後、音信の途絶えた年月が過ぎた。私の海外での活動が一段落した頃、他の杜の仲間と共に、今は壮年になった彼と再会した。ワンネス・スクール主催の講演会講師を依頼された。彼の成し遂げてきたことを思えば、今更私が講話する事もないと思えたが、彼が産み育ててきた「人の杜」の風景を訪ねてみたくもあった。

 講演会の期日も迫った頃、彼から連絡があった。教育の分野での活動に中日新聞より贈られる「教育賞」に選ばれ、授賞式が講演会と同日という事になり、申し訳ないが講演会の開会時間を少し遅らせてもらえないかとの相談であった。そのような喜ばしい事なら、講演会は受賞記念講演会とし、むしろあなたが報告、講演を行ってはと勧めたが、むしろ授賞式より講演会を大切にしたいと、彼は譲らなかった。

 当日、講演会は開会を数時間ずらし、午前の表彰式後、彼は名古屋からとんぼ返りで金沢の講演会場に戻ってきた。その日の講演会は、予想を上回る参加者が、講演後の質疑応答まで熱心にご参加下さった。出会いの偶然と必然の不可思議を改めて思う一日であった。

 I prefer to finish my education at a different school.

Henry David Thoreau, "Life without Principle"

 「私は異なった学舎において私の教育を成就したい。」 ヘンリー・D・ソローの言葉である。「森の生活」の著者として知る人々は多いだろう。45年に満たないその生涯の中で、ソローは単なる森の隠者に止まらず、様々な職業を経験している。その数ある職業の中には教師もある。兄ジョンと経営した私設学校、コンコード・アカデミーがそれである。この学校の特徴は、通常の学科以外に森の散策、ボート漕ぎ、先住民の遺跡見学、町の商店訪問など様々な活動が含まれていた。

 「...学校でただ『川は山から流れ下る』と教えられても、それは想像上の知識でしかない。真の意味で学知を持つ者は、自らの繊細な身体感覚を通じて自然を知る。...」このソローの言葉は、私達が唱えてきた樹林氣功の「なまみの感性」と響き合う。また、ソローは云う。「私達が学ぶのは、直接的な交わりと共感によってである。」ここでソローは、Sympathy『共感』という表現を使っている。この語には、「思いやり」、「調和」、「共鳴」、「共振」、「交感」などの重層的な意味が含まれている。私達も、杜のまなざし塾で、いのちの本来の風景は、双方向の響き合い、森羅万象との交流、共鳴、共感と説いてきた。

 「人の杜」育ても、森林を育むのも30年、50年、3世代の大事業である。

 「財を真に営む者は公の心を持つ者なり。公の心を持つ者は財を真に活かす者なり。その財のもっとも真なるは人なり。真に財を営むは人育てなり。」という言葉がある。

 北陸、白山麓の地で、今、いのちひとつらなりの人の杜が育っている。

杜のまなざし (2)

 福井から山中温泉に抜ける道は、富士写ヶ岳の裾を巡って行く。深田久弥の日本百名山の出発点とも言える富士写ヶ岳の晩秋の森で、杜のまなざし塾を行った。地元からの参加と共に、遠くは熊本、そして三重、長野、兵庫からも杜のお仲間が集い、80代から幼児まで杜の氣との交流を楽しんだ。

 樹林氣功会観氣行改め、杜のまなざし塾も、その基本はたんとう功である。ふっと、森の中に立ち交じらせて頂く。『化樹の行』とも云われるが、「わたし」が立っているのではなく、杜のまなざしに包まれて、ここに、静かに、森のささやかな一部として居させて頂く。たんとう功は、その境地に入って行く一つの手立て、一つの作法である。手立てや作法はシンプルなものほどよい。そして、一度境地が拓けば、手立てに囚われる必要はない。

 氣功の念いには、要らざるものを脱ぎ捨てていく、行き着く先には、無一物の軽やかさ。ただ、すとんと、天地万物のただ中に、そのささやかな一点として息づかさせて頂いているいのちひとつらなりの風景がある。この簡にして、素なることを、往々にして、なかなか納得して頂けない。

 あなたの云っていることは、難し過ぎると言う者もあれば、いや、もっと奥義に至る技があるに違いない、出し惜しみをしないで、その技を、修練法を教えてもらいたい、と迫る者もいる。この様な功法が、気のパワーを強くする。この様な樹木と、或いはこの様なパワースポットで気功を行えば、気感が拓き、能力が高まり、健康になる等々、効能書きはかまびすしい。様々な功法が世に溢れ、その功法を学ぶ事が、いつの間にか目的化してしまい、気功の商業化に貢献する事になる。甚だ近視眼的な、本来の氣功の風景とは異質なものと云わざるを得ない。

 富士写ヶ岳の急な登りを過ぎた中腹のブナ林で、弾んだ呼吸を静め、各々が好みの場で、杜の一部となった。30名ほどの参加者の中には、約30年にわたり、樹林氣功を積み重ねて来た方々もあれば、つい最近始められた方々も居た。両親と共に参加した幼児も居た。

 氣の世界には、優劣は無い。生きとし生けるもの、在りとし在るものは氣を有し、響き合い、連なりあっている。ヒト科のヒトのみが、文明という技術革新の中、氣の感性を閉ざし、鈍らせてきた。

杜のまなざし (1)

 樹林氣功を提唱し、早三十年が経った。この間、「樹林氣功」はそれなりに社会に認知され、各地に拡がりを見た。しかし、その多くはともすれば森林浴や、アウトドア健康法の一つとしての理解であったり、大樹、古木からパワーをもらうといった類のものである。それなりに影響力のある気功評論家が、そのような森林気功を喧伝していることもあり、世の多くにはこうした樹林気功の捉え方が流布している。

 気功の世界の大半は、ヒトの我欲の世界。樹林氣功を称しながら、その実は、我にとってのご都合主義、我の健康、我がパワーアップが彼らの心を占めている。そこに在るのは、人間の利益から見た世界であり、そうした世界には、自らが杜のまなざしを受けて、ここにささやかに存在させられているという謙虚な認識は育ちようもない。いのちの風景としては、一方向に偏ったすこぶる健やかならざる風景である。

 歴史を振り返れば、産業革命以降、私達ヒトは、この我欲増大、ヒトのご都合主義を、それまでと比較にならぬ機械・技術・生産力を持って驀進してきた。その結果を、今日私達はまざまざと目の当たりにしている。にも関わらず、ヒトは慣性で、今までの理性や知性、技術力の幻想に無上の価値を置いた、価値観や行動をひたすら続けている。

 今日、理性や知性はAIに奪われ、技術力はそれを使う者の倫理観や判断力の及ばぬ領域に入り込み、それでもなおかつ技術的問題は技術によって解決できるという虚構の迷路を突き進み続けている。

 一歩立ち止まってみてはどうだろう。静かに辺りを見回し、諸々のいのちに包摂された自己を、大きな精妙な「いのちの網」を、その不可思議を見つめるひとときを持ってみてはいかがであろうか?

 自我意識の肥大化したヒトの視点からばかりではなく、諸々のいのちのまなざしを受け、いのちの網の中にある小さな存在であると共に、全てのいのちとつらなりあっているということをなまみに「観ずる」感性を育み、養うことが今日におけるヒトの課題ではないだろうか。ここに、杜のまなざし塾の問いかけがある。

白山水系観氣行

 私は若い頃より、何かに引き寄せられる様に、呼ばれる様に、様々な風景を訪ね、暫しそこに佇み、時を過ごした。今にして思えば、その殆どが今日ジオパークとされ、ジオサイトと呼ばれる地である。

 白山もその一つ。現在ジオパークと認定されている白山域、その水系。呼ばれる儘に訪れ、暫し日々を過ごした。約半世紀前、10代の終わりの頃であった。その白山水系を、秋の終わりに北陸の仲間達と、杜のまなざし塾の集いで再訪した。

 二十四節気七十二候では、霜降の末候、「楓蔦黄なり」と。因みに、古やまとことばでは、草木が黄や紅に染まることを「もみつ」と、その葉を「もみち」と呼んだ。「もみじ」の語源と云われている。

 白山水系の滝滝は、美事な紅葉に彩られていた。正に、「山粧う」。十一世紀、北宋の画家、郭凞の言葉である。更に、冬の静もった山を「山眠る」と。その粧いから眠りにつく寸前の一瞬に私達は立ち会えた。身の染まるような「もみつ」の風景の中、暫し杜のまなざしとの交流を楽しみ、その余韻を味わいながら下山した。

 ところで、白山水系の滝と紅葉の美事な風景に感動しながら、この風景、この森の成り立ちに幾人の方が思いを馳せただろうか。

 白山は、中生代白亜紀前期(約一億四千三百万年前~)に堆積した手取層群などの地層の上に火山の噴出物が載る非常に不安定な地質を成し、大規模地滑りの起こりやすい地帯である。こうした地質が、あの滝の多い景観を産み出し、森も造り出した。

 最近、「多様性」という言葉が日常の文脈の中でも使われるようになってきた。生物多様性、種の多様性のみならず、文化の多様性などとも使われている。しかし、まだ「ジオ多様性」という表現は余り認知されていない。様々な地質を構成する岩石、そのような地質によって造られる地形の多様性。その地質、地形を巡る水循環の多様性。それが、多様な森を生み育んでいる。私達も、そのジオ多様性によって支えられた生物多様性の中に生かされている。

 あの美事な白山水系の紅葉は、想像を遥かに超えた時の集積のジオ多様性に始まる様々な多様性の連鎖・循環によって成り立ち、現前している。

 白山を発った翌日、今年の暦では十三夜に当たった。西に向かい、その夜は島根県隠岐島前のカルデラの外輪山に立ち、十三夜の月光に包まれた。