杜のまなざし(7)

 「悼惜」

 今春、立て続けに友人、知己を見送った。

90歳の長寿を全うされた、被災地で知り合った「友人」。一方で、10代のこれからという希望に満ちたいのちを事故で失った。その死の数日前に、電話でこれからの希望や、計画、夢を楽しそうに語ってくれた矢先の不慮の死であった。また、東日本大震災の被災地で、本人自身被災者でありながら、私達ボランティアと共に被災地支援の地域リーダーとして一緒に汗を流した40代の一家の大黒柱、コミュニティの柱でもあった友人、何の言葉も遺さず逝った。彼のみならず、50代の友人二人もそれぞれ自死を選んだ。

 私自身は、様々な現場で死を看取ってきた。

荘厳な死もあった。悲惨な死にも出会った。どんなに死に逝く人を送る体験を重ねても、他者の死に慣れる事はない。

 現代では、「服喪」と言う慣習は忙しすぎる日々の中で形式化し、忘れ去られがちとなっている。礼の根本として、「服喪」を重んじた孔子は三年間の服喪の儀礼を大切に説いた。一方では、形式だけに囚われた服喪のあり方は戒めている。今日、3年間の服喪は余りにも非現実的かも知れない。しかし、喪に服するとは、心の中で死者と親しく対話し、逝った者の不在を悼惜(悲しみ、惜しむ)する時間とするならば、こうした心の時間は大切にしたいものである。

 この春に逝った友人たちの初盆を祀った。間も無く、秋の彼岸。この時間の流れ、逝った人々との対話を静かに続けることにし、一切の講演、文章の発表を控えた。このエッセイ「杜のまなざし」もその様な思いで暫く発表を差し控えた。一方、この間、大阪北部地震、西日本豪雨被害、そして北海道胆振地方の地震と災害が続いた。その現場の支援活動だけは、死者の赦しを得て、現在も北海道の現場に身を置いている。

 ともすれば、「科学的思考」に馴らされた私達は、死は物質の消滅と思い込まされてはいまいか?

 「死は見ることの完成形だ」という言葉がある。人生の一部を共にした方々との悼惜の対話は、嘆き悲しみに止まることなく、その対話を通していのちの風景の深みを見る大切な時間であろう。服喪をないがしろにしてはならない由縁ではなかろうか。

 養生(ようせい)の思想は、いのちの風景としての死も愛おしく、大切に包摂していく。   樹遷

樹遷の養生塾

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