杜のまなざし(50)
~路傍の哲学者~
梅の香が馥郁とする。
古びたビルの建てこんだ路地の奥、ビルに挟まれ押しつぶされそうな更に古びた木造家屋、その塀から枝を差し伸べ、奇跡的にビルの間を抜けてきた日の光に花芽をほころばせた梅の木。
暫し佇んでその健気な梅の花姿と香りを愛でた。
「主なしとて・・・、だな。」低いしわがれた声がした。
「春な忘れそ。」振り向くと、この近くをねぐらにしている路上生活のおじいさんが、ひげを搔きながら梅を見上げていた。
コロナ禍の中の路上生活者の方々の窮状を見るに見かねて、彼らのもとを訪ね歩き始めた。当初はなかなか受け入れて頂けなかったが、漸く心を開いて様々な彼らの物語り、希望を少しづつ聞かせて頂けるようになった頃、このおじいさんに出会った。
おじいさんと言っても、外見はそう見えるが、ひょっとしたら私の方がだいぶ年上かも知れない。初めてお会いした時から、暫くの間、彼は一言も発さなかった。ある底冷えのする日、その界隈の路上生活者の方々に温かなお茶と、温めた弁当を配って歩いた時、このおじいさんが最後になった。
一緒に座って茶を飲んでいると、「死ってなんだ。」聞き取れないほど低い声で、おじいさんがポツリと言った。
その日から、おじいさんと私の対話は始まった。そして私は、ひそかにこのおじいさんを『路傍の哲学者』、“ソクラテス”と心の中で
呼ぶようになった。
「故あって、私は40歳以前に一旦死んだと思っています。その後は死を留保された余生だと思って、死を与えられるまで精いっぱい一日一日すこやかになすべきことをなし、死に向って歩を進めています。少なくとも、そうありたいと思っています。」
永い沈黙の後、「そうだよ。死を恐れる人もいる。自分一人で死ぬのが怖いからと言って、他人を巻き込んで自殺しようとする奴もいる。癌になったと判ると、何で私がと、怒り乱れる人もいる。人は、おぎゃあと生まれ落ちた瞬間から、死に向って日々一歩一歩歩んでいるというのに。」この瞬間、このソクラテスおじさんと私にとっては、この埃っぽい異臭の漂う冷え冷えとした道端も、アテナイのアカデメイアにも劣らぬ場と時となった。
「私は常々、すこやかに生まれ、すこやかに育ち、そこまでは世の人皆、そう思っているが、すこやかに病む、そしてすこやかに老い、その果てにすこやかに死ぬ、病も、老いも、死もいのちの波に過ぎない。と人様に語っています。」
また暫しの沈黙の後、「にいさん、あんたの言う『すこやか』は生というものが、日々一歩一歩死に向っての歩みだと言う意識に裏打ちされた自覚だな。古風に言えば、『覚悟』だな。それも底抜けに朗らかな『覚悟』だ。」
「この辺りに流れ着いた連中でも、もう失うものはないはずなのに、まだ死を恐れ、病を恐れているよ。死を恐れる、病を恐れるという事には、貧富貴賤は関係ないな。人生を透徹した目で見通す覚悟は教育があるなしなど全く関係ない。」
この路傍の哲学者との対話は、私一人が楽しむのは余りにも勿体ない。これから、数回に渡りこのエッセイシリーズに掲載していきたい。 樹遷記
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