杜のまなざし(51)
~老い~ 路傍の哲学者との対話Ⅱ
昨年、知人の医者から、樹遷さんを診させて下さい、と。
若い秘訣を知りたいから、と。
結果、30代ですね。と言って下さった。
何とも好意のてんこ盛りである。75歳、後期高齢者と呼ばれる年齢の私を、30代とは!知人には老眼鏡が必要なのではないか?と真剣に案じた。
その後、折に、いたずらごころを出して、冗談として私は肉体年齢30歳です。と申し上げると、まともに受け取って下さる方々があるので当方はどぎまぎしてしまう。
そんな筈がなかろう。75歳は、75年間使い古した体であり、この世間でその年月受けた古傷を一杯抱えた心身である。
とは言え、私は自らが年老いて行くのを、甚だ興味深々で楽しんで見守っている。「なるほど、こうして人は老いていくのか。」と面白がっているところがある。
人の一生は、リハーサルの無い一回こっきりの舞台。
しかも、予め与えられた脚本なども無い。
20代では想像もできなかった年老いていくこのいのち。次のシーンにはどんな老いを見せるのか、自らの未知ないのちの風景、これ程好奇心を掻き立て、面白いものは無い。
私が若く見えるのは、この好奇心と面白がっている自分、それが若く私を見せるのかも知れない。
「この前は、にいさんと『死』について語り合ったな。」
何世紀も人通りなど絶えて無いような路地の片隅で、久々の日の温もりを味わうように、二人で陽なったぼっこを楽しんでいた時、不意に路傍の哲学者が呟いた。
「老いる、とは人にとって、どんな意義や意味がある?」
「いのちは次世代のいのちを生み、独り立ちさせたら、さっさと舞台から退場したらいいじゃないか。」
「ついこの間まで、人生50年とか言ってたのが、いつの間にか人生80年になってしまった。」
この対話をしている路傍の哲学者も私も、むろんこの老いの世代である。
「いのちの織物を織る時間が昔よりゆっくり遅くなったのじゃないかと私は思います。」
「ほう、これほど効率優先主義の何事につけスピーディーな世の中になったのに、にいさんはいのちの織物を織る時間は逆にゆっくりなったというのかい。」
「そのゆっくり織られていくいのちの織物に関わり続けることがわしら年寄りのいのちの時間の意義というわけか?」
そこで、路傍の哲学者は別の次元に意識を移したのか、沈黙の行に入ってしまった。私も、腰を上げた。
さて、皆さんにとって、老いとはなんであろう?考えてみてください。
樹遷記
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