杜のまなざし(43)
~ナレイティブ・物語ること①~
人はそれぞれの物語をもっている。
多くの場合、人々はその物語を語り出せずにいる。
自分の物語りなどに誰も興味を持たないだろう、自分は話すのが下手だし、何を話していいか判らないし、人前で話すのは苦手だし・・・。
色々な言い訳がある。その根底には、この国の教育の未熟さがある。
初等教育から大学に至るまで、大半の教育は『事』教育に重点を置いている。
自らの物語りを語り出させる機会は殆んどないに等しい。教員本人が物語ることを知らぬか、躊躇している。
人はそれぞれの言葉を持ち、表現を持っている。文化多様性の根源はそこにある。一般的に『多様性』を述べるときに、民族の文化多様性や、自然の多様性と言った大きな枠組みで使用されることが多いが、個々の人々の多様性がこうした多様性の概念の基礎となっていることは余り検討されていない。
路上生活者の方々や、高齢者の方々とお話ししていて、彼らが急に輝き出すときがある、それは彼らが自らの物語りを始めたときである。その時、彼らのいのちはすこやかに息づいている。
このエッセイでも、折々様々な方の文章を載せさせて頂いている。
今回は、九州での樹林気功の集いに参加した若者から送られてきた文章をご本人の許可を得てここに掲載する。若者の心の息遣いが聞こえてくる。
今後も、皆さんの物語りお待ちしています。 樹遷記
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「書く」ということは自分を表現するということだと思っていますが、それ以上に私は自分と向き合うことだと感じています。
「自分のことは自分が一番わかっていない」という話を何度か耳にしたことがあります。実際、自分のことを客観的に見ることは難しい。自分のことなのに考えていることや感じていることがわからなくなったりもします。でも、そのとき思ったことや考えたことを思うままに書くと、少し自分自身が見えてくる気がします。「書く」ことは楽しい反面、苦しいことでもあります。自分の書いたものを見て、普段は気づかなかった、もしくは見て見ぬ振りをしていた自分の恥ずかしい部分や格好悪い部分、弱さを突きつけられることがあるからです。例えば、「格好つけて書いているな」とか「自分を大きく見せようとしているな」とか、「読者の顔色をうかがっているな」とか。
そんな自分の醜い部分と対峙する時には、悔しくて恥ずかしくて、ちょっと苦しい。書いていると達成感や充実感を得る瞬間よりもそういう悔しい瞬間の方が多いです。
だけど、それでも自分の心の中にあるものを言葉として表せた時や、少しでもそれがだれかに伝わることがあるから、書きたいと思うのだと思います。そして、だれかの文章を読んで、自分に何か伝わるものがあった時、とても感動するからその感動のタネを自分でも作ってみたいと思うのだと思います。
最近日常の中でふと気づいたことがあります。自分は「意味を求めすぎているんじゃないか」ということです。それが自分自身を苦しめることが多々あります。
例えば、外で少し勉強しようかなと思って、近くのカフェまで散歩する。道中、歩いているときは心が軽いのに、カフェに入ると徐々に心が窮屈になっていく。
どこかの席からだれかの話し声が聞こえて来たり、店員さんが接客している姿が目に入って来たり。その店員さんやお客さんと知り合いではないし、聞こえてくる会話の内容も私には関係ない話。なのになぜかその会話や、態度が気になってしまい、そちらに意識が持って行かれてしまって、勉強に集中できない。結局まったく進捗のないまま、がっかりしてカフェを出るということが何回もあります。
地元に帰ってきて、車の数やすれ違う人の数も減って、そういうストレスは福岡にいたときよりも減ったのですが、それでもまだ「1人になりたい」と強く思うことが多々あります。本当は意識しなくていいものを勝手に意識して、そして自分を疲れさせているように感じました。自分でもどうすればいいのかわからなくて、外を歩くときはイヤフォンで耳を塞ぎ、音楽を聞いて、外からの刺激をある程度遮断しないといたたまれなくなってしまいます。
なんでそんなに関係ない人のことや会話が気になるのか。集中したいのに。いろんなところに意識が飛び散っていく。
私は物事に対して、「意味」を受け取れるものには、貪欲に意味を受け取りたいという欲があるのかもしれない。そう思いました。だれかの行動、だれかが発する言葉、には自分にとってなんらかの「意味」があって、それを無意識に受け取ろうとしているのかもしれない。だから敏感になっているのかもしれない。
でも不思議なことに自然の音や、動きは自分にとってストレスがない。風の音や、鳥の鳴き声や、草の匂い。
それらはむしろ心地よい。自分が解放されているような感覚になる。
多分そこには自分が「意味」を受け取ろうとしないからだと思う。頭を働かそうとしないから。
音楽が好きな理由も、ちょっと似ている気がする。
音楽は歌詞があるものが多いけれど、でも音楽を聞く時には、歌詞だけではなくメロディーやリズムがあって、意味を求めないメロディーやリズムのおかげで私は楽になれる、癒される。
頭で考えずに、ただ音として心で聞ける。
人の会話も音楽のように、音として心で聞ければいいなと思います。頭をひねって、意味を求めすぎずに、心で感じて受け取れたらいいなと思います。 ほのこ記
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