杜のまなざし(49)
~春待つ心~
特別支援学校の生徒たちの書初めを見る機会があった。
「春待つ心」~殆どの生徒が、多分教師から示されたお手本によって書いたのであろう同じ文言の書を書いている中で、唯一人「春待つ心」と書いていた。
中学三年生のその女の子は、どんな春を待っているのだろう。どんな希望や夢や不安を抱いて春を待っているのだろう。どんな人生の旅路がこの子を待ち受けているのだろう、と暫しその書の前で時を過ごした。
コロナ禍も三年目、この春も先行き不透明な社会状況の中、新たな旅立ちの春を待つ若者達、孤立感を経験し、様々な世代の人々との交流の希薄だった世代の若者達。閉じ込められた様な日々から、マスクを外し、思い切り自由な他者との交流、気兼ねの無い行動を出来る春を心より待っているのでは無かろうか。
否、若者だけではない。世の全ての人々が切にそんな春を待つ心であろう。
昨年、こうしたコロナ禍の中だからこそ、立ち上げたいのちの学校、その参加者の中に今年、医師や看護師の国家試験を受ける若者達がいる。コロナ禍の中、孤立感や閉塞感を感じながら、医師や看護師として世の役に立とうとここまで頑張って来た彼らにも春待つ心、善き春の訪れを心から祈っている。
看護師と言えば、「近代看護教育の母」と称されるフローレンス‣ナイチンゲールは、クリミア戦争時負傷兵達への献身的看護活動や、統計を基にした医療衛生改革で著名であるが、そうした活動によって「クリミアの天使」「白衣の天使」と称される。しかし、ナイチンゲール自身はそうした世の評価を喜んではいなかったようだ。
「天使とは、美しい花をまき散らす者ではなく、苦悩する者のために戦う者である」と述べている。
そのクリミア半島を含むウクライナに、昨今戦争前夜を思わせるきな臭い緊迫感が再び漂っている。ヒト科のヒトと言う生き物はどこまでいっても、過去から学ばない生きものなのだろうか。
春待つ心には、独裁者の欲望の幻想は要らない。 樹遷記
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