杜のまなざし(46)
~”物語ること”②~
科学においては、事実の発見とその事実の証明が、またその第三者による再現性が重視され、それによって近代科学は成り立ってきた。
しかし、こうした科学的思考は、事実求是という事をあらゆる価値観にも錦の御旗として持ち込んでしまった。こうした擬科学主義的論理は、現代社会から”物語る”ことの豊かさ、それを許容、享受する寛容さを失わせている。
人々は、窮屈な”事実”に取り囲まれ、窒息感を味わいながらも、その”事実”の中で、各々の役割演技をストレスを貯めながら、息切れしながら演じている。ポストモダン、近代超克が語られて久しいが、もうそろそろ事実に縛られず、物語る豊かさを取り戻したいものである。そして、一方物語を聞き取る豊かさも取り戻したいものである。多様性などと言う表現は、そこにはもはや不要となる。いのちとして、いのちの物語りに向き合う、いのちの双方向の風景が拓けていく。
最近、いのちの学校に参加して下さった若いお仲間から素敵なエッセイが届いた。ここに掲載して、皆さんと分かち合いたい。 樹遷記
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樹遷さんが何度か今までお話ししてくださっている「物語る」ということに対するお考えやお気持ちが、私の心を豊かにしてくださいました。
あれから、度々「物語る」ということについて考えています。あまりにも今まで「物語る」機会が少なすぎたと実感しました。それを取り戻すかのように、だれかが書いたエッセイやら、小説やら、映画やら、たくさんの物語を取り入れているように思います。自分の物語ではなくとも、自分とは遠く離れた見ず知らずの人が書いた物語でも、感じるものがたくさんたくさんあふれてきました。だれかの物語に入っていくと自然と涙が出ます。
樹遷さんは以前、『事実よりも真実を大切にする』ということもおっしゃっていましたね。
だれかが話す物語は事実とは違うかもしれないけれど、その人の中では真実なんだ。だから、その真実の物語の中に入って聞き入ることが大切なんだと教えてくださいました。本当にそうだな、と実感しています。
社会の中で生活していると、「あなたは何をしている(してきた)人なんだ」とか「あなたは何者なのか」とか経歴やら肩書きやら職業やら形あるものが重視されて、そういったことばかり聞かれます。
私はそれが窮屈で苦しかった。そういったことを並べても、何も自分というものが相手に伝わる気がしなくて、悔しかった。
そうじゃなくて、「何のどんなところが好きで、それをどんな風に自分の中に取り入れたか」とか「こういう瞬間のこういう言葉や表情に心を動かされた」とか、曖昧な形のものの話をしたいと思っています。言葉にならないようなことです。
そういったものが、わたしのすきなエッセイ、小説、映画などには表現されていて、そういうものを最近はとても欲しています。何よりそれらの物語の中にいるときは、生きている気がして幸せです。
うまく伝わるかはわかりませんが、物語の中にいる人物は自分とは違う人間だし、その人は世界でたった一人の人なのだけど、わたしもその人になり得るなという気持ちになります。これまでは全く自分とは違う人間だと信じて疑わなかった人、例えば、工事現場のおじさんや、コンビニの店員さんにも、最近は「わたしもその人になる可能性があるのだな」という気持ちになります。それが最近の心の中の大きな変化です。「目の前の他人とわたしは違うんだ」という考えから、「一人一人は替わりがいないたった一人の人間だけど、同時にわたしも目の前の他人である可能性がある」という考えに変わりました。 ほのこ記
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