管理人

記事一覧(2)

杜のまなざし(13)

背く子・背かれる親  雑草という草はあらず 「雑草という草はあらずといひたまいし         先の帝をわが偲ぶなり」常陸宮妃華子様のお歌である。 昭和天皇のお人柄を偲ばせるエピソードだが、那須の御用邸で夏を過ごされ、吹上御所に戻って来られるというので、御所建物周辺の草をきれいに刈っておいたところ、帰ってこられた昭和天皇「どうして草を刈ったのかね」とのお尋ね、「雑草が茂って参りましたので」と応えた侍従に、「雑草ということはない」「どんな植物でも、皆名前があってそれぞれ自分の好きな場所で生を営んでいる。人間の一方的な考え方でこれを雑草として決めつけてしまうのはいけない。」と諭されたということである。 同じ様な話が、植物分類学の泰斗牧野富太郎にもあるが、このエピソードは、晩年の昭和天皇を彷彿とさせるものである。 触れもせず、嗅ぎもせず、愛でもせず、名も知らず、先祖たちがその植物とどう関わり合ってきたか、その植物にどんな風に「お世話」になってきたか、知らぬ存在は、身の周りにあっても、見向きもせず、素通りしてしまい、ひっくるめて「雑草」としてしまう。 名前を知ると、その草花がある風景は一気に親しみを増し、時にはこんな所にもいてくれたね、と懐かしささえ覚える。ましてや、今でこそ人々の生活とは縁遠くなっているものも、かつてはご先祖たちの生活の中で大切な役割を果たし、恵みをもたらして下さっていた事などを識ると、ひとしお愛おしく、有難く思えてくる。 植物の存在無ければ、私たち動物の生は成り立たない。所が、それほどの恩を受けながら、私たちはともすれば「雑草」と一括りにして切り捨ててしまっている。 植物の知性について研究をしているステファノ・マンクーゾが、この人間の植物に対する忘恩について面白い仮説を唱えている。少し長くなるが引用してみよう。 「人間と植物は、大昔から絶対的な依存関係にある。親子の関係に似ているかもしれない。子どもが成長すると、特に思春期には親に頼ることをまったく拒否する時期がくる。これは、親から自由になって自立心を育てるために必要な段階で、のちに本当の自立を手に入れるための下準備でもある。人間と植物のあいだにも、これと同じようなメカニズムがはたらいているのではなかろうか?もちろん細かな点は親子関係と異なるが、それでもこの考えを完全に否定することはできないだろう。ほかの人に依存するのは、だれだっていやなものだ。依存は、弱くて傷つきやすい立場のときに起こる。たいていは、自分がそんな立場にあるなんて思いたくはない。 依存する相手を憎むのは、依存関係のせいで完全な自由を感じられないからだ。ようするに、私たちは植物に依存していながら、その事実をできるかぎり忘れようとしている。それは、自分たちの弱さをまざまざと思い知らされるのがいやだからではないだろうか。」 マンクーゾの仮説は、人の植物に対する「心理的ブロック」の根本にあるものを仮説ながら明らかにしてくれる。と同時に、最近の社会現象に思い至るきっかけをも与えてくれる。 最近、私の身の周りも含め、若者たちの失踪や、大学を休学、退学し親からの支援を拒否、職について親とのコミュニケーションをも取らなくなるケースをしばしば見聞きする。 そうした若者たちの行動の根底にあるのは、マンクーゾの指摘していることなのではないだろうか。背く子も、背かれる親もこのマンクーゾの仮説の説く心理的ブロックに気づいていないことが、この社会現象を理解しにくく、また子も親も互いにコミュニケーションを取り戻す道筋を見えなくしてしまっている原因の様に思える。  自主自立は、生きて行く基本には違いない。しかし、真の自立は、他の諸々のいのちとの手つなぎによってはじめて成り立つことを忘れてはならない。若者たちよ、自主自立を急ぐあまり、他の諸々のいのちによってこのいのちが今、ここに成り立っている事を忘れないで下さい。もっとも身近ないのちがささえあってこそいのちは成り立つのだから。いのちはひとつらなり、それを忘れた自立は他のいのちの切り捨てに向かう。 雑草という草はあらず、もう一度周りを見回して、名を呼びかけ、対話を試みて。まわりのいのちの思いや、どのように生きて来たか、その様な事を知るにつれ、今まで気づかなかった、どれほどその他者に支えられ、恩を被ってきたかに目が開かれるかも知れない。

杜のまなざし(12)

 「樹恩」  樹恩と言う言葉を、お教え下さったのは柏樹社の中山社長だった。樹医の山野忠彦翁も樹恩という表現をしておられた。 1990年柏樹社より出した『愚者の智恵』あとがきを少し長くなるが、引用させて頂く。 「人類中心的価値観は、人類以外の存在がコミュニケーション能力を持ち、ましてや判断力を持っているということを、永い間、容認することが出来なかった。人類の持つこうした認識の枠組みの狭さがどれほど多くの事実に対して私たち自身を盲目にしてしまっていることだろう。 みどりがなければ、私たちはこの惑星上に今あるような形では存在しなかっただろう。地球上にみどりが発生して以来の、長い長い歴史の中で我々は育まれてきた。その間、意識する、しないにかかわらず、みどりと交流しながら、私たちは人類というものにまで至ったのである。いまや、私たちは、このみどりと交信し、理解し合い、癒し合うことができるかどうか問われている。」 30年近く前の文章である。この本発刊当時、「ロマンですね」と鼻先であしらわれることが多かった。 ステファノ・マンクーゾという研究者がいる。イタリア、フィレンツェ大学農学部教授、国際植物ニューロバイオロジー研究所の所長でもある。この植物の『知性』研究の第一人者の研究成果は、これまでの人間中心主義の生命観、価値観を大きく転換するものである。脳も無い植物に知性がある!?と大半の方は反応されることだろう。 「知性」という言葉を、『問題を解決する能力』と定義できるとしたら、植物は知性をもっているだけではなく、その知性は輝かしく素晴らしいものであることをマンクーゾ氏は、その研究成果を持って証明している。こうした植物の知性について定量データに基づいて初めて科学的に示したのは、チャールズ・ダーウィンである。 植物の知性に関するマンクーゾ氏の成果についてお知りになりたい方は、氏の著書“Verde Brillante”の翻訳「植物は<知性>をもっている」をお読みください。 ここでは、マンクーゾ氏も著書で触れている別の事実を述べておきたい。地球上のバイオマス(個体の総数ではなく、生物の総重量)のうち、多細胞生物の99.7%は、人間ではなく植物が占めている。人間と、全ての動物を合わせてもわずか0.3%に過ぎない。 マンクーゾ氏も指摘している。「われわれこそが地球の支配者であり、地球を自在に操る力をもち、ほかの種よりも大きな権利をもっている」という人間の思い上がった考えと、この事実の矛盾を。 「植物は、私たち人間がいなくても、なんの問題もなく生きることができるのに、私たちは植物なしではたちまち絶滅してしまう。」というこの植物学者のつぶやきも、それを真に理解しているのは人間たちではなく、植物たちなのかも知れない。 私たちは、植物に依存して生きている。樹恩、草恩、もろもろの緑恩に深く頭を下げる他ない。 樹遷